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2002/07/23
さらば広島 また来るまでは しばしの別れ 涙をしのぶ▼日本語の歌声響く 庭先で李在錫さん(69)は、広島の方角である東南東を向いた。韓 国南部の慶尚南道陝川郡。目をつむり歌う。「私は日本人だったん ですから」。棚田に、日本語の歌声が響き渡る。 広島に生まれ育った。両親が昭和初め、職を求めて渡っていた。 日本の教育を受け、ハングルはほとんど知らずに育った。一九四五 年、広島商業学校に入学し、卒業後は銀行員になりたいと夢見てい た。 悲劇に遭うまでは…。 爆心地から約一・七キロの西区三篠本町。家にいて吹き飛ばされ た。唇が割れるように切れた。一歳の妹は、下敷きになって死亡し た。父は左官の仕事に出ていて体半分にやけどをした。 李さんは日本に残りたかったが、父は死期を予感したのか、「祖 国に戻りたい」と言った。年末に一家で韓国へ。翌年二月、父は息 を引き取った。 ▼異国のような祖国 十四歳だった。母が農家の手伝いをして一家を支えたが、生活は 苦しく、学校には行けなかった。ハングルは分からず「日本に帰 れ」とののしられた。唇の傷はケロイドになっていた。「原爆の土 産か」とも言われた。「泳いででも日本に帰りたい」。つらいこと があるたび、「広島」が頭に浮かんだ。 韓国の被爆者には、今も日本を古里と感じる人が少なくない。仕 事を求めて日本に渡った親の二世たちだ。幼少期を広島で過ごした 彼らにとって、祖国であるはずの韓国は、「異国」のようでもあっ た。 八六年、李さんに広島再訪のチャンスが訪れた。渡日治療の一団 として、四十年前は焼け野原だった街に立った。ビルが建ち並んで いた。ただ驚いた。 その後、唇のケロイドがもとで原爆症の認定患者に認められた。 渡日治療を重ね、無料で除去手術を受けた。病気が治った認定被爆 者に支給される月額五万円程度の特別手当も滞在中は支給された。 昔話をしながら楽しい時を過ごした。 ▼悲しい現実の落差 そんな李さんは今、「心の祖国」日本を相手に闘っている。認定 被爆者も韓国に戻ると、被爆者援護法は適用されない。特別手当も 打ち切られる。「特別な治療が必要と認めた被爆者でさえ差別する のですか」。そう問い掛けたくて、手当支給を求める裁判を昨年九 月、大阪地裁に起こした。 「日本は差別をしない国だと思ってきたのに…。それが悔しい 」。日本を愛するがゆえに一層、納得ができない。 今も時々、広島の夢を見る。あこがれた銀行員として広島を駆け 回っている自分が出てくる。目が覚めると現実との落差に気持ちが 落ち込み、農作業が手につかない。 そんな時には庭先に出て、東南東を向く。 さらば広島… |
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