人間国宝で、広島市名誉市民の尺八奏者島原帆山さん(99)=東区
=が原爆の日の六日夕、中区の原爆慰霊碑に初めて献曲する。島原
さんの指揮で、七十人の門下生たちが演奏するのは「平和の山河」
(一九五一年作)。入市被爆した島原さんが翌四六年夏、悲しみの
中で創作した曲がその源である。九月に満百歳を迎える島原さん
が、世紀を越え伝えてきた芸で、平和への祈りをささげる。
戦後、被爆体験をほとんど語らなかった島原さんだが、「平和の
山河」はしばしば奏でた。その思いを知る門下生たちが、師の百歳
と二十一世紀の第一歩を重ね合わせ、慰霊献曲を島原さんに勧め、
実現した。
島原さんは原爆投下の翌日、衛兵をしていた八本松町の海軍弾薬
庫(現・東広島市)からトラックで広島市内へ入った。その時の光
景を「街がぺしゃんこだった」と表現する。
市内電車のまくら木が、まだ燃えているのに衝撃を受けながら、
家族が疎開していた草津へ向かった。だが、義父、姉や肉親六人が
犠牲に。駆け付けた五日市町(現・佐伯区)の実家では、高等女学
校の一年生だっためいが目前で息絶えた。「悲しみの廃墟だった」
と島原さん。
つらい気持ちを引きずっていた翌夏、「平和の山河」の原曲とな
る「平和広島」を作った。初めて人前で吹いた時、涙が止まらなか
った。わずか三日で完成させた曲の底に悲しみが流れる。
五年後、尺八の師匠である故・中山都山氏に編曲を頼み、広島に
限らず全国へ、世界へ平和の祈りを伝えようと「平和の山河」が生
まれた。
午後六時から慰霊碑前で演奏するのは、島原さんが会長を務める
日本尺八連盟の広島県支部の会員たち。山本誠山支部長は「尺八一
筋で芸を磨き、被爆体験は語らなかった先生だが、すべての思いは
『平和広島』に込められている」と話す。
島原さんは「演奏は、無。その対極が、争い。平和を願う心を導
けるような指揮をしたい」と語っている。
【写真説明】平和な新世紀を願い初めて原爆慰霊碑に曲をささげる島原さん
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