2000・7・1
放射線の知識 国民財産に 広島、長崎の「教訓」は生かされてはいなかった―。昨年九月三十日、茨城県東海村で臨界事故が発生したニュースに、広島の被爆者や反核・平和運動にかかわってきた人の多くが、こんな苦い思いをかみしめた。 ■被爆者の声届かず 大量のウランを一カ所に集めれば、臨界に達しやすくなる。事故を起こした作業員は、こうした基礎的な知識さえ持っていなかった。「多少の知識があれば、あんな危険な作業はできなかったはずだ」。多くの専門家の指摘が、事故はなぜ起きたのか、その背景を雄弁に物語っている。 放射線について最も敏感であるはずの原子力産業の現場が、その恐ろしさにいかに鈍感だったのか。事故は、その実態を明らかにした。もちろん現場の作業員だけに責任があるのではない。違法行為と知りながら組織ぐるみでルール違反を重ねた会社や、それをチェックできなかった国の責任は重い。 原爆被爆者は一貫して、核兵器の廃絶と放射線の恐ろしさを訴えてきた。自分たちのような核による被害者をこれ以上生んではならない、との思いが強いからだ。しかし、原子力の現場には訴えが届いていなかった。 原爆投下から半世紀以上過ぎた今なお、放射線は被爆者を苦しめている。被爆数年後に白血病がピークを迎え、二十年、三十年たてば肺や乳、胃などの発がんリスクが高まってくるなど、晩発性障害の不安があるためだ。 ■ずさん管理 相次ぐ 臨界事故では、放射線を浴びた直後から臓器や皮膚などにダメージが現れる急性障害の患者も出た。現場で作業中に大量の放射線を浴びた二人は、治療のかいもなく、死亡した。 ほかならぬ東海村に初めて「原子の火」がともり、原子力の平和利用が日本で本格的に始まって四十年余りになる。原子力発電は今、国内の発電量の三分の一余りを担っている。エックス線検診など医療分野も含めて、放射線はすっかり私たちの身近な存在になった。 引き換えに、広島・長崎原爆やビキニ被災で植え付けられた「放射線は怖い」という記憶が色あせたのだろうか。最近、玉野市や倉敷市などで金属スクラップの中に放射性物質が見つかる事件が相次いだ。放射性物質がいかにずさんに扱われているかを示している。 放射線が人体に与える影響は完全には解明されていない。原爆被爆者に関する半世紀を超す研究があるにもかかわらず、だ。 ■高まる市民の関心 広島大原爆放射能医学研究所(原医研)は六月、五回連続の公開講座「放射線、四方山(よもやま)話」を広島市で開いた。放射線に関する知識を市民の財産にしようとの目的だ。臨界事故前の昨年夏の公開講座も同じテーマだったが、今年は受講者数が毎回約三十人と倍増した。臨界事故をきっかけに、放射線に対する市民の関心が高まったことを裏付ける。 いたずらに放射線を怖がる必要はないが、放射線が被ばく者に何をもたらすのか。受ける放射線の量に応じて、どのくらいリスクが高まるのか…。放射線について国民の知識はまだまだ不十分であることを臨界事故は認識させた。被爆地・広島は、放射線の影響を正しく伝えていかなければならない。核被害を繰り返さないため今後も変わらぬ使命だろう。
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