2000・4・30
軍事転用に歯止め ●科学者の「反省」映す
原子力予算案が突然提出された一九五四年三月。原子力利用の問題にどう対応するか、議論を重ねていた日本学術会議は、結論を出せないうちに一気に現実の場に引き出された。急きょ関係委員会を相次いで開き、対応策を協議する。 ■政治家の暴走阻止 学術会議会員だった伏見康治氏(90)は「委員会の前夜、なかなか寝付かれず、起き上がって『原子力憲章草案』を書いた。政治家が暴走しないよう平和利用に徹するためのクツワをはめなければならなかった」と回想する。
■「自責の念あった」 五四年は日本の再軍備の動きが活発化する一方、反対運動も起きていたころ。自衛隊が発足した年でもあった。「当面は平和利用でも、いずれは軍事につながる危険性が高いとの懸念があった。しかも、ほとんどの物理学者は戦争中、原爆やレーザーの研究などで軍事協力したという自責の念があった」。元原子力安全研究協会常務理事の大塚益比古氏(72)は、当時の科学者の心境をこう解説する。 学術会議は、伏見氏の草案を基に議論を深め、五四年四月の総会に臨んだ。既に原子力予算は成立していた。二日間の論議の末、原子力の研究と利用に関する声明を出した。「わが国において原子兵器に関する研究を行わないのはもちろん、外国の原子兵器と関連ある一切の研究は行ってはならないとの固い決意」を示し、「公開」「民主」「自主」という原子力平和利用三原則を打ち出した。 原子力利用に関する議論が白熱した五二年十月の総会から一年半。学術会議は、軍事転用への歯止めを設けることで平和利用容認に転じた。 ■権威無視に危機感 「突然の原子力予算やビキニ被災の直後に、あれだけのものを出せたのは学術会議が内部で真剣に論議を重ねていたから。外からは小田原評定に見えたかもしれないが…」と大塚氏は評価する。だが、伏見氏は「学術会議は権威を無視され、ある意味では危機だった」と強調する。 三原則は、翌五五年末制定の原子力基本法にも盛り込まれ、研究・開発・利用の原則として国レベルでも位置付けられた。 平和利用については、ビキニ被災を機に国民的に盛り上がった原水爆禁止運動の中でも議論された。五六年八月の第二回原水爆禁止世界大会では「原子力は平和的にのみ利用されなければならない」として、研究の公開など必要な条件を六つ挙げる決議が行われた。 「平和利用を積極的に進めようというのではなく、もし役立つなら将来の可能性は否定しない、ということだった」と元日本原子力研究所研究員の市川富士夫氏(70)は振り返る。「死の灰」の恐怖を身近に感じて国民の原爆否定の思いは強まっていったが、スタートを切った原子力平和利用に対しての結論は「ノー」ではなかった。 |