中国新聞社

2000・4・29

被曝と人間 第4部 源流 1950年代
〔4〕初の原子力予算

政治主導で推進へ

  ●米の政策転換が契機

 一九五四年三月一日、原子炉築造補助費二億三千五百万円を盛り込んだ予算案の国会提出が突然決まった。原子力研究に慎重だった日本学術会議の方針は、転換を迫られることになる。

 ■学術会議員に衝撃

 学術会議会員だった物理学者の伏見康治氏(90)は翌朝、新聞で知り、「思わず声を上げるほど驚いた」と、その時の衝撃を鮮やかに思い出す。

 「学術会議が動かないと、世の中は動かないと思い込んでいた。まるで会議が踊っている間に、ナポレオンに上陸されてしまったようなものだった」

 原子炉築造補助費は、後に首相となる中曽根康弘氏(81)ら当時の改進党衆院議員四人の発案。与党自由党などとの予算案修正折衝の場に持ち出し、予算案に盛り込ませた。

 中曽根氏は、回顧録「政治と人生」(講談社)と「原子力開発十年史」(日本原子力産業会議)に当時の経緯や思いを記している。その中で「学術会議に任せていては小田原評定を繰り返すだけで二、三年の空費は必至。政治の責任で打開すべき時が来ていると確信した」と説明する。

 ■ひそかに時機狙う

 さらに、「事前に漏れるといろいろ障害が出てきて、なかなか成功するものではない。ひそかに時機を狙っていた。たまたま予算を修正するというチャンスがきたので、この時とばかりに原子炉予算を入れた」と舞台裏を明かしている。

 実際、「寝耳に水」の学界や文部省の反発は強かった。中曽根氏も「新聞は一斉に非難し、学界、官界も『無謀な独走』『時期尚早』と反対した」と記している。

 唐突に見える予算だが、伏線があった。米国の政策転換だ。三カ月前の五三年十二月八日、アイゼンハワー大統領が原子力の平和利用を推進する国連演説を行った。ソ連の核開発進展で米国は、核兵器独占が前提の戦略見直しを強いられ、機密にしていた情報や核物質を他国や民間に解禁するよう核戦略を転換した。

 予算案との関連について中曽根氏は「五三年の夏、米国の原子力平和利用研究の進ちょくぶりを視察して回った。軍部が独占していた原子力研究が民間に公開され、経済界が活動を始めていることが分かり、日本も遅れてはならないと痛感した」と回想している。

 ■日本への影響懸念

 しかし科学者の間では、米国の核戦略転換が日本に与える影響を懸念する声もあった。元日本原子力研究所研究員の市川富士夫氏(70)は「平和利用と言っても核兵器を造る下地になるのではないか、という懸念が強かった。しかも学術会議すら知らない非民主的な政策推進はおかしかった」と当時の状況を振り返る。

 原子力をめぐる政治家と科学者の関係を象徴する言葉がある。「学者が居眠りをして怠けているから、札束でほっぺたを打って目を覚まさせるのだ」。反対を訴えにきた科学者に政治家が言い放った、と伝えられる。

 突然の原子力予算案は、科学者たちの反対にもかかわらず、三月四日に衆院を通過し、一カ月後に成立。政治主導で被爆国日本の原子力開発がスタートを切った。市川氏は今、こう指摘する。「科学技術の裏付けのない政治優先の原子力推進は残念ながら、その後もずっと続いていく。予算案は、最初の一歩だった」


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