中国新聞社

2000・3・23

被曝と人間 第3部 ある原発作業員の死
〔2〕原子炉の下で

身かがめ点検 調整

  ■ノートに克明な記録

 「伸之が原発の中でどんな仕事をしていたのか。離れて暮らしていたし、無口な子なので、私は何も聞いていなかった。遺品のノートは、暗号のようなアルファベットや数字が並び、さっぱり分からないし…」

 白血病のため二十九歳で亡くなった嶋橋伸之さんの母美智子さん(62)=神奈川県横須賀市=の手元に、表紙が黄ばんだ三冊のノートがある。嶋橋さんが生前、中部電力浜岡原子力発電所(静岡県浜岡町)で作業していた際に書き留めていた。二冊は研修ノート、残る一冊は一九八八〜九〇年の間の業務日誌。研修ノートには、配線図や作業工程などが書かれていた。

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嶋橋さんが作業していた浜岡原発2号機の原子炉直下。しゃがみこんで作業しなければならない狭さだ(3月8日、静岡県浜岡町)

 美智子さんは嶋橋さんの死後、会社の同僚や友人に息子のことを尋ねて回った。納得のいく答えは見つからなかった。息子を失って約八カ月が過ぎた九二年夏、そのノートを読み解いてくれる人を探し当てた。被ばく労働問題に詳しい慶応義塾大の藤田祐幸助教授(物理学)である。

 藤田助教授は、初めてノートを見た時の驚きを回想する。

 「あれほど詳細な記録は見たことがなかったから、言葉も出なかった。研修ノートには作業内容や装置の説明、用語集もあり、業務日誌にはいつ、どこで、どんな仕事をしていたか克明に書かれていた」

 「それらの資料を突き合わせ、半年ほど分析に費やした。すると、何日もかけて装置の微調整を繰り返すなど、現場の状況がありありと浮かんできた」

 嶋橋さんは、原子炉内の中性子の密度を監視する計測装置の保守、点検をする「核計装」が専門だった。原子炉の運転状況を把握するために重要な装置で、浜岡原発の場合は炉の下から装置を挿入している。炉の定期検査時、嶋橋さんはその下にもぐり、装置を取り外して調べる仕事だった。

 作業現場は実際、どんな場所なのか。静岡県央部の南端、遠州灘に面した浜岡原発は、約百六十ヘクタールの敷地に現在、四基の原子炉が稼動している。同原発放射線安全課の岩木清高課長が、2号機の定期検査中の現場を案内してくれた。

 「原子炉の真下は、制御棒を動かす装置の配管などもぶら下がっている。直径四、五メートル、高さ一・五メートルほど。狭い場所なので、実物大の模型を使った訓練もしてもらっている。線量は比較的高いが、計画被ばく線量を決めて作業に入り、無駄な被ばくはしていない。もちろん、嶋橋さんもそうしていたはずです」

 原子炉格納容器の中は、なま温かい空気が流れ、溶接の火花があちこちで上がっていた。嶋橋さんの作業場所は格納容器の中心部分。原子炉直下への入り口は一メートル四方と狭く、放射能汚染を防ぐ黄色い防護服を着込んだ数人が、身をかがめて出入りしていた。

 嶋橋さんが、被ばく作業を行っていた八年十カ月。美智子さんにとって空白だった時間は、三冊のノートをきっかけに少しずつ埋まり始めた。

 「原発は、コントロール室からコンピューターですべて制御している印象を私自身も持っていた。でも実際は、事故を起こさないために最も大切な整備や検査は、伸之のような下請け作業員の手に頼らなければ原発は動かせない。自分の責任を果たすため、誇りを持って働いている人が、被ばくし続けている」

 嶋橋さんは入社して数年後、技術主任になり、率先して原子炉の下へ入って行った。放射線量の高い区域で経験を積むに従って被ばく線量は増えていった。


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