中国新聞社

2000・1・3

原子力研究所での足跡 自問

  これまで一体何を…

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東海村役場を訪れた山本さん。原子力の平和利用と核兵器廃絶を併記した村の宣言に、事故後、違和感を覚えるようになった、という

臨界事故 被爆の光景だぶる

 ビニールシートに包まれ、担架で運ばれる被ばく者。取り囲む白い放射線防護服姿の男たち―。異様な光景だった。わが国の原子力開発をリードしてきた日本原子力研究所(原研)の技術者だった山本章さん(68)は、東海村豊岡の自宅で臨界事故のテレビを見た。器材や服装こそ違え、半世紀以上前の記憶がよみがえってきた。

 長崎を離れ東海村に

 十四歳だった一九四五年八月九日、長崎市。米軍機が原爆を投下した爆心地から約二・七キロの自宅で被爆した。古里を離れてもう五十年になる。十年前の退職まで、原子炉燃料の開発などに携わった。東海村で、被爆者であることをことさら意識したことはなかった。

 「でも、あの映像を見たとき、自宅前をぼろぼろの衣服で逃げる被爆者の列とだぶって見えた。これまで自分は一体何をしてきたのか、やりきれなくて…」。三カ月前の事故の衝撃をそう振り返る。

 人口三万三千人の東海村。一九五七年に原研東海研究所を誘致して以来、原子力関連施設が次々に立地した。今では、六キロ四方ほどの村内に十三施設を数える。全国各地から、原子力関係の技術者も集まってきた。

 「平和利用の一翼を」

 山本さんが村に移り住んだのは六二年の秋。東京の機械メーカーを辞め、原研へ再就職した。大学で学んだ物理学の知識を生かしたかったからだ。放射線科の医師だった兄の影響もあった。原子力の平和利用が本格化し始めたころ。一方で、五四年のビキニ被災を契機に盛り上がった原水爆禁止運動が政治色を強めていた。

 「被爆者が放射能を全否定するのは簡単だが、科学的ではない。平和利用は、どんな運動をするより建設的だと思った」。原研へ出した履歴書の主義・信条の欄に、迷わず「平和」の二字を書き込んだ。憲法の規定にもかかわらず、まだ採用活動で「信条」を尋ねていた時代だった。

 臨界事故が起きた昨年九月三十日午前十時三十五分ごろ。村役場で二十一世紀に向けた村の総合計画を討議する「まちづくり委員会」に出席していた。現場の南東約二キロの自宅に帰ったのは午後三時ごろだった。「JCOで事故と聞き、たいしたこともないのにマスコミが騒ぎすぎ、と最初は思った」

≪東海村臨界事故≫

(原子力安全委員会事故調査委の最終報告書から抜粋。
一部、東海村消防署などの記録で補足)
<1999年9月30日>
10時35分ごろ JCO東海事業所ウラン加工施設の転換試験棟で
警報が鳴る
10:43 東海村消防署へJCOから救急車要請の119番
11:19 JCOが科学技術庁へ「臨界事故の可能性あり」と第一報
12:30 東海村が付近住民に外出しないようにと広報活動開始
14:00 原子力安全委に科技庁が事故を報告
14:08 JCOが東海村に避難を要請
14:30 科技庁災害対策本部設置
15:00 東海村村長が350メートル圏内に避難勧告
21:00 関係閣僚による政府対策本部(本部長・小渕恵三首相)が
第1回会合
22:30 茨城県知事が10キロ圏内の住民に屋内退避を要請
<10月1日>
2:30ごろ 臨界を抑制するため沈殿槽の冷却水抜き取りを開始
6:15ごろ 臨界終息。約19時間40分ぶり
この日、科技庁が事故の国際評価尺度は「レベル4」と発表。国内
最悪の評価
<12月21日>
JCO社員大内久さんが23時21分に死亡。35歳
<12月22日>
科技庁が周辺の土のう積み作業などをした57人の被ばくを発表。臨
界による直接被ばく69人、冷却水抜き取り作業などをした24人と合
わせ、計150人に

 人の文化の限界思う

 だが、概容が分かるにつれて、見方が変わった。あってはならない臨界事故が発生し、最悪でも回避するはずの施設外への被害が出た。隣接している建設会社の七人の被ばくが判明したほか、かなり多くの周辺住民が放射線を浴びた恐れも濃厚だ。

 十月中旬、事故後初めて開かれたまちづくり委員会。「もう原子力施設はいらない」「いや、原子力との共存共栄路線を変えるべきではない」と、議論が白熱した。原子力施設の恩恵を受け、共存への折り合いを付けてきた村民たち。今、その悩みは深い。

 ウラン溶液をバケツで扱うずさんな作業、それを見逃してきた原子力行政。原子力産業に身を置いた技術者の一人として、山本さんは自問する。「原子力を活用するには、われわれ人間は不十分で未成熟な文化しか持ち合わせていないのではないのか」

 「原子力平和利用推進 核兵器廃絶 宣言の村」。村役場の前庭の塔に、十四年前に制定された村の宣言が記してある。技術者として原子力利用を推進し、原爆被爆者として核兵器廃絶を願ってきた自らの姿も、そこに重なる。「でも、今みると、皮肉だなあ」。仰ぎ見るその宣言に、山本さんは違和感を抱き始めている。

 



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