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聖路加病院理事長 日野原重明さん(100)

平和をつくる自覚持って。君たちこそ原動力

―平和を実現するために、子どもにはどんな可能性がありますか。

子どもは成長する「種」であり、将来の平和づくりの中心になります。平和についての考えを子どものころから持っていれば、世界に影響を及ぼすことは決して難しくありません。


ひのはら・しげあき 1911年10月4日、母親の実家の山口市で生まれる。京都大医学部卒業。41年聖路加国際病院に内科医として赴任し、院長を経て現職。2005年に文化勲章受章。父の善輔氏は30年から42年まで広島女学院(広島市中区)の院長を務めた。日野原さんの学生時代、帰省先は広島市だった。東京都世田谷区在住。

大人は核兵器を持とうと主張し、戦争で人が殺されることを知りながら軍隊や兵器を持っている。力で勝負しようとし、話し合いを断念しているとも言えます。

そんな大人に、私たち子どもが世界に平和をもたらす一番の原動力だ、と知らせましょう。平和を愛する子ども、特に被爆地広島の子どもが、世界の子どもと手を結びましょう。原爆に遭った日本人だからこそ、核兵器を持ち命を壊し合うことはやめましょう、と外国に説得力を持って言えます。大人ができない、平和な社会を成し遂げられると信じ、具体的な方法を考えてほしいのです。

10代の皆さんが平和をつくってほしい。子どもの時にすでに平和をつくるための行動が始まっているんだと自覚してください。

―子どものころの思い出や、広島とのかかわりは。

父は広島女学院の院長でした。京都の旧制高校に通っていた私は、休暇で広島の家へ戻り、太田川で泳いで楽しく過ごしました。

京都大の学生だった時、結核になりました。39度の熱が半年以上続き、広島の家で寝たきりになり、トイレにも行けませんでした。その時、妹に蓄音機をかけさせて、音楽のメロディーを五線譜に写していました。家の中で動けるようになると、ピアノを弾き作曲もしました。音楽は私の教養となり、生涯の喜びになりました。広島は、患者の苦しみが理解できるようになった場所であり、青春の地でもあります。

父は原爆が投下される前に、定年で東京へ移りましたが、投下直後に広島で生徒や先生を訪ねて回り、放射線を浴びました。

―東日本大震災をどう思いますか。

中国人研修生を避難させた後、津波にのまれた日本人もいるし、世界中が日本を助けてくれました。そこには「愛」がある。愛の気持ちをもっと広めれば、戦争を起こさないという申し合わせがきっとできる。私はそれを子どもたちに期待しています。

―10日に1回、命や平和の大切さを小学生たちに伝える「いのちの授業」をされています。日野原さんが考える「命」とは。

命の大切さを知れば、それを傷つけられなくなる。友達の心を荒らすようないじめもなくなります。殴られても殴り返さず、今回は辛抱するから一緒にサッカーをやろうと校庭に出てみましょう。仕返しをしない、ということは、社会では、国家間の戦争をなくすことにもつながります。

―私たちが平和のためにできることは。

ホームステイで外国の生活に入り込むことも大切です。交流に必要な英語も身に付けてください。大人になったら国を越えて職に就き、結婚して家庭を持つのもよいでしょう。インターナショナルになりながら、日本の古き良き文化を新しい結婚生活の中で具現する必要があると思います。

日野原さん(左から2人目)にインタビューするジュニアライター

(高3・岩田皆子、高1・坂田弥優、井上奏菜、秋山順一、中3・木村友美 写真はいずれも高1・井上奏菜)