「ひろしま国」のジュニアライター5人が、夏休みを利用して、ボランティアや交流活動のため海外に行きました。異文化に触れたり、ヒロシマについて紹介したりして、視野を広める貴重な体験になりました。
8月6日朝(現地時間8月5日)、米ハワイ・ホノルル市にある出雲大社で開かれた平和記念式典に参列しました。ハワイに2週間滞在する広島YMCAの国際交流プログラムの一環です。 式典は、宮司の祝詞で始まり、仏教、ユダヤ教、キリスト教という宗教を超えた平和への祈りがささげられました。神社には、広島市からホノルル市に寄贈された「平和の鐘」のレプリカがあり、式典後、僕は原爆で亡くなった人のことを思いながら突きました。 翌日、ホストファミリーと真珠湾を訪れました。日本軍の攻撃で沈む船の写真や壁一面に刻まれた犠牲者の名前を見ました。原爆の被害ばかり学んできた僕は、初めて日本の加害と向き合いました。戦争は多くの命を奪い、苦しみしかもたらさない愚かな行為だと痛感しました。(中3・末本雄祐)
韓国北東部にある麟蹄(インジェ)郡で8月7日から1週間、日本、韓国、中国の子どもたちが交流しながら平和について考える「ピースキャンプ」に参加しました。 小学生から高校生まで約30人が文化や平和などのテーマで毎日、英語で意見交換しました。「あなたにとって平和とは」という話し合いで、私は「地球上の生き物すべてが幸せに感じることだ」と発表。参加者の中には笑顔や手を取り合うことの大切さを訴える人もいて、身近な心掛けが平和につながることをあらためて感じました。 文化交流では、私は浴衣を着て、日本語で落語を披露。英語の通訳もありましたが、身ぶり手ぶりでも、雰囲気を理解してもらえたと思います。韓国や中国の参加者は民族衣装を着て楽器を演奏していました。 韓国人の少女は「違う国の人と友だちになることが平和への第一歩」と言いました。友だちがいる国と戦争したがる人はいません。私は世界中に友だちをつくりたいです。(高1・坂田弥優)
7月下旬の10日間、NPO「国境なき子どもたち」(東京)のリポーターとして中東のヨルダンに行きました。ヨルダンには東隣のイラクや西隣のパレスチナから逃げてきた難民が多くいます。難民の子どもたちの境遇を日本の同年代の人に伝えるため、現地の難民や貧困家庭の14歳から18歳の子どもたち8人と、ビデオを制作しました。 首都アンマンに住むイラク難民の姉妹2人に、アラビア語の通訳を介して取材しました。母親はイラク人、父親はヨルダン人です。しかし両親は別居中で、今は母親と3人で暮らしています。 母親が働いていますが、外国人がヨルダンで働くことは違法です。収入はわずかで不安定ですが、危険なイラクに帰ることもできません。「自分たちの将来が心配」。母親の言葉から、先が見えない生活への不安を感じました。 ビデオは11月、東京で上映します。(中3・石井大智)
インド北部のラクナウにあるシティー・モンテッソーリ・スクール(CMS)という、幼稚園から大学まである学校の招待を受け、学校が毎年8月に開いている行事「ヒロシマ・ナガサキデー」に参加しました。 8日、学校の周りを平和行進しました。生徒や先生3000人が核兵器廃絶などを訴えるプラカードを持って「ノーモア ヒロシマ、ノーモア ナガサキ」と言いながら街中を進む様子は圧巻です。列は1キロ以上続いていました。自分たちが世界を変えていくんだ!とインドの若者たちに教わっているようでした。私も行進の先頭に立って、一緒に訴えました。 約40分間行進した後、ホールに入り、ヒロシマについて話しました。皆が真剣に聞いてくれてうれしかったです。インドでは「広島を知っていますか?」とたずねると「原爆」と返ってきます。次に行く時には「平和」と言ってもらえるよう、広島を変えていきたいです。(中3・佐々木玲奈)
私が通っている中学校の研修プログラムで7月下旬から2週間、オーストラリアのメルボルンにホームステイしました。 現地の中学生約20人を前に、東日本大震災について英語で発表しました。被害写真を見せながら、テレビで見た、「お父さん、お母さん」と、がれきの前で泣き叫ぶ少女のことを話しました。「今、私たちは幸せだけど同じ空の下で苦しんでいる人がいる」と訴え、私たちにできるのは震災に遭った人のために祈ることだと呼び掛けました。 日本時間の8月6日午前8時15分、ホストファミリーと黙とうしました。8歳のホストシスターに原爆の絵本「わたしのヒロシマ」を見せると、焼け野原になった広島のページを真剣に見ていました。 ホームステイは楽しかったけど、ホストファミリーの原爆や平和についての考えを英語でうまく聞き出せず、後悔しました。(中3・木村友美) |
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