2000年6月23日
6 女性医師
バスラ市西部のアル・ハイアニア地区に、婦人科医のナディア・ ユシフさん(33)の小さな診療所はあった。「ナディア」の名前を頼 りに、繁華街のビルにある同名の女性医師の診療所を訪ねたところ、 「そのナディアさんなら知っている」と教えられ、診療終了前に辛 うじてたどり着いた。 ランプともし診療 平屋建ての玄関を入ると、六畳ほどの待合室に二人の女性が診察 を待っていた。その奥の診察室で診療中の彼女に来意を告げると、 突然の押し掛けにもかかわらず、快く取材に応じてくれた。 停電のため、ガスランプをともしての診療である。待合室はガス よりも暗い石油ランプで、ほのかに照らされていた。 イラクではほとんどの医師が朝から午後二時までは公立病院で働き、午後三時からは個人クリニックで、それぞれ診療に当たる。給 料が安くて暮らしていけないためだ。一般の国家公務員の給与は三千五百〜五千ディナール(約二百〜三百円)。役人らも午後二時 の勤務時間を終えると、路上で商売をするなどさまざまなアルバイ トに精を出す。 「お待たせしました」。診療を終えたユシフさんは、目鼻立ちの くっきりとしたふくよかな顔に笑みをたたえ、いすを勧めてくれ た。三畳ほどの広さに机といすが数脚。聴診器と血圧測定器のほか は、医療器具らしいものはなかった。 「私は自分の体だけじゃなくて、バスラや戦場になったイラク 南部の人たちの健康がこれから先どうなるのかと思うと、本当に不 安で仕方ないのよ」。滑らかな英語で彼女は、不安の理由を話し始 めた。 病院の中庭に爆弾 「私の場合は、二人目の子を妊娠している去年の六月に、右の乳房にしこりを感じて生体検査を受けたの。悪性と分かって、七月一 日に手術を受けたわ。一週間後に二女を産んで、それから半年間化 学治療を続けたのよ」。その間はむろん、ユシフさんが勤める病院 も、診療所も休んだ。 「十二月の初めにバグダッドへ行って、放射線治療を一カ月間受 けたの。治療できる病院が一つだから随分待ったけどね。体が回復 して仕事を始めたのは、つい最近のことよ」 がんの宣告を受けた時は、絶望感に襲われた。今では、右腕の動 きがやや不自由な以外はほぼ以前の生活に戻り、希望もわいてき た。 「それにしても、ここ一、二年で私の周りの女性の医師が四人も乳がん にかかるなんておかしいと思わない。みんなほとんど同じ時に医学 生時代を過ごした仲間なの…」。今のところ、早期発見、早期治療 で四人とも仕事に復帰しているという。 一九九一年の湾岸戦争の時、ユシフさんは二十四歳。医学生から バスラ中央教育病院の研修医になったばかりだった。病院の中庭に 二発のロケット弾が撃ち込まれて四人が犠牲になったり、バスラ市 内の自宅の周辺にも爆弾が落ちた。 離れられない故郷 「むろん、乳がんの患者が多いのは女性の医師だけじゃない。病院で も、ここのクリニックでも驚くほどよ。二十代の若い女性にまで広 がっているの。卵巣がんや子宮がんも増えているわ」 ユシフさんは、自分たちは医者だから乳がんの早期発見ができた という。しかし、一般の女性は乳がんについての知識が乏しく、経 済的な理由もあって、病院を訪ねた時は手遅れのことが多い。啓発 活動と乳がん検診を推し進めないと、犠牲者がもっと出る、と懸念 する。 「バスラやイラク南部の環境は、今でも劣化ウランや他の爆弾に よる化学物質などで汚染されていると思うわ。空気や食物を通して 知らないうちに汚染物質を体内に取り込んでしまうかと思うと、二 人の娘の健康も心配。だけど、好きな故郷を離れることはできない わね…」 陸軍将校の夫(36)が任務でバスラを離れても「ついていかない」 と言うユシフさん。仕事や故郷への愛着の強さが、健康や環境への 彼女の不安を一層かき立てていた。 |
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