中国新聞

タイトル 第1部 それぞれの思い 
 
 6.弾薬庫の地主

星条旗下に「わが家」
 ―帰る日願い続け60年
地図

 「ここからよく見えますよ」と、土肥卓次さん(93)が、JR山陽 線越しに米軍川上弾薬庫を望む場所に案内してくれた。お目当ては フェンスの内側にある崩れかけた石垣だった。

 旧海軍が突然接収

 「あれが私の家の跡。生きているうちにもう一度、あそこに戻っ て住みたいですね」。今は三キロほど先に住む。目を移すと星条旗 と日の丸が並んではためいていた。

 東広島市八本松町。敷地二百六十万平方メートルの広大な弾薬庫 一帯は、かつて旧川上村宗吉の住民の所有地だった。接収したのは 旧海軍である。「寝耳に水だったが、従うしかなかった」。土肥さ んはまだ昨日のことのように覚えている。

 一九四〇(昭和十五)年六月、呉鎮守府の主計大佐が小学校に住 民を集め、「ここを買収して海軍の施設を造る。今年いっぱいで集 落ごと立ち退くように」と告げた。対象は四十四戸だった。施設と は弾薬庫。大戦中に完成する。

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古い資料を手に古里の土地への思いを語る土肥さん。壁には昔の自宅の風景画がかかる
(東広島市八本松東3丁目)

 土肥さんも自宅や約一万平方メートルの田畑、約三万平方メート ルの山林を手放した。立ち退きを急ぐあまり、住民の一人が家具を 背負ったまま山陽本線の急行にはねられて亡くなる痛ましい事故も 起きた、という。

 「必ず土地は返す」

 戦後、弾薬庫には米軍が進駐する。元地主たちは国に土地の「払 い下げ」を求める活動を始めた。「将来、不用になったら、必ずや 国家は優先的に皆さんに返すだろう」という、主計大佐の説明を信 じていたからだ。

 川上村議だった土肥さんらは五一年、上京して地元選出の故池田 勇人衆院議員(後の首相)に嘆願書を手渡す。「先生は、今は無理 だが、機運が熟せば力になると答えてくれた」と言う。だが、その 前年には朝鮮戦争がぼっ発。川上弾薬庫は米軍の重要な戦略拠点に 既に組み込まれていた。

 払い下げ運動は成果がないまま、六〇年代にはしぼんでしまう。 「半永久的な弾薬庫となってしまい、どうにもならんということに なった」。ベトナム戦争、湾岸戦争でも弾薬を供給した「カワカ ミ」は、極東有数の弾薬庫になった。

 土肥さんは、日米安全保障条約がある以上、「米軍が日本にいる ことはやむを得ない」と考えている。長男が弾薬庫の職員だったこ ともある。だが先祖伝来の土地へのこだわりは消えない。応接間に は、立ち退いた直後にかいてもらった昔の自宅の絵が今もかかる。

 車窓から見た古里

 たまたま一人が発案したのがきっかけで昨年十一月、元地主や家 族ら二十六人が六十年ぶりに集まり、弾薬庫の中に入った。土肥さ んが東広島市を通じ、弾薬庫を管理する米軍秋月弾薬廠(しょう) 司令部(呉市)と交渉して実現した。

 マイクロバスで、それぞれの家の跡を回った。「みんな口々に戻 りたいと言っとりましたよ」

 旧海軍から米軍へ―。この六十年、主は代わっても戻らない古里 の土地。土肥さんは「すぐには無理だろうが、世界情勢が変わって 弾薬庫が必要のなくなる時代も来るかもしれん。池田勇人さんの言 った機運を待ち続けたい」との思いでいる。

 《米軍川上弾薬庫》在日米軍秋月弾薬廠(しょう)の施設の一 つ。旧海軍が一九四二年に建設した弾薬庫を接収した。朝鮮戦争後 の五七年に一時、遊休状態となったが、ベトナム戦争のため六七年 に運用を再開した。貯蔵能力は四万トンとみられる。施設は拡充を続 け、最新式の弾薬整備システムや補修工場も備える。市街地をトラ ックで弾薬輸送することへの批判が強く、東広島市が撤去を求めて いる。


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