河野 修司(56)
河野印判店▼中島本町40番地の1の自宅で爆死したらしい▼妻と子の家族3人が全滅。修道中3年で、爆心2・8キロの広島陸軍兵器補給廠(南区霞町)で被爆したおいは「かわいがってくれた伯父一家の遺骨は見つからず、原爆供養塔の納骨名簿が掲示されるたびに名前を捜しています」。
妻 コハナ(46)(右)
爆死。
長女 美代子(22)(左)
家事手伝い▼爆死。
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有冨 タカ子(27)
夫が戦地へ出た後、母が中島本町60番地で営む「加川旅館」を手伝う。建物疎開となった旅館の荷物を古田町古江の別宅から取りに行く途中に被爆し、46年5月28日死去▼夫は47年中国から復員し、一緒に住んだ義母と再婚した妻とともに旧住民の慰霊法要に出席し、4年前に死去。
鉾平ハマノ(不明)加川旅館従業員▼旅館で爆死したとみられる。
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松山 コミヅ(40)
うちわ製造・卸「松山商店」▼中島本町40番地の2の自宅で爆死▼長女と2人。佐伯郡水内村(湯来町)の軍需工場に徴用されていた夫が8日、自宅跡で遺骨を見つけ、大きな骨は布にくるんで納め、小さな骨は砕いて元安川に流す。
長女 凉(すず)子(18)
爆死。 |
野間 久子(13)
市立第一高女2年▼現在の平和記念公園南側一帯の建物疎開に動員され、遺骨は不明▼母と兄が6月まで、桜湯の一角でうなぎ店「野間」を営んでいた。三菱重工業広島造船所で被爆して7日、捜しに入った5つ違いの姉は「皆やけどで顔の区別はつかず、妹が着ていたかすりのもんぺの切れ端を見つけ、お墓に入れました」。いとこで同学年の野間昭子(13)も行方不明
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野田 モト(53)
野田商事合資会社▼中島本町の自宅で爆死。炊事場跡で遺骨が見つかる▼長女と2人。細工町(中区大手町1丁目)で紙の販売と印刷をしていた会社兼自宅が7月初め、建物疎開で立ち退きとなり、中島本町へ移転していた。
長女 和子(25)
県内政部職員▼洗面所の跡近くで遺骨を確認▼佐伯郡玖島村(佐伯郡佐伯町)の伯母宅に一時いたが7月末ごろ、迎えに来た母と中島本町に戻った。
前浜 菊次郎(48)
野田商事勤務▼爆死。妻らが、会社跡で印刷機にもたれかかっていた遺骨を見つける▼自宅は東観音町2丁目(西区)。長女の安田高女1年の年子(12)は、平和記念公園となった材木町での建物疎開作業中に爆死。(注・遺影なし)
坂根 義雄(34)
野田商事勤務▼遺骨は不明▼東観音町1丁目623番地の自宅から毎朝7時ごろ、歩いて出勤。母ハル(54)は自宅近くの爆心1・25キロの観船橋で被爆し、9月5日死去。弟の保雄(29)は自宅で被爆し、10月18日死去。(注・遺影なし) |
川野上 兵八(50)
桜湯▼中島本町63番地の自宅で爆死。遺骨は、夫の郷里の御調郡に疎開していた長女が、自宅前の防火水槽跡近くで金歯により確認▼妻、長女の夫と3人。妻は安芸郡江田島町の郷里に出掛けていた。
長女の夫 斉(30)
日本発送電中国支店(現・中国電力)勤務▼遺骨は不明。爆心900メートル、中区大手町3丁目にあった中国5県の発電・送変電を統括した支店は出勤者117人のうち生存者は2人。
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初田 アイ(73)
中島本町65番地の自宅で爆死したとみられる▼息子と3人が全滅。孫らは「結婚して中沢姓となった四女シズも実家で原爆に遭い、亡くなったかもしれないが、今となっては断言できません」
長男 清太郎(39)
遺骨不明。(注・遺影なし)
二男 正太郎(36)
船員▼遺骨は不明。
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吉原 実蔵(57)(左)
回漕と薪炭「統一商会」▼中島本町62番地の自宅で爆死▼妻と2人。高田郡高宮町に疎開していた長女が、3歳になる娘を背負って8日捜しに来る。80歳になった長女は「上半身だけになっていた遺体の口をこじ開け、歯並びで両親を確認しました」。
妻 アイ(54)(右)
爆死。
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吉田 善一(58)
うなぎや魚善▼集産場内の店舗跡で遺骨を確認▼1人暮らし。店を手伝っていた義理の妹が保存する「広島集産場土地建物株式会社」による家賃は月額23円97銭。料亭にも出張した。
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三原 利郎(54)(左)
三原商店▼小間物を扱っていた中島本町40番地の1の自宅で爆死
▼妻と長男の妻子の5人のうち4人が死去▼呉海軍工廠に徴用されていた長男は、夜勤明けの帰宅途中に被爆し、その夕自宅跡に入る。山県郡千代田町に住むおいは「叔父は9日、家族の遺骨を納めた小さな空き缶を胸に抱いて帰ってきました。原爆のことは、死ぬまで話したがりませんでした」。長男は93年死去。
妻 ツルヨ(49)(右)
孫とともに山県郡千代田町の実家へ疎開していたが、長男が広島に駐在した西部第二部隊への召集を受けため5日、野菜を携えて自宅に戻った。
長男の妻 チサ子(27)
爆死。(注・遺影なし)
チサ子の長男 重文(3)
祖母とともに自宅へ戻り、爆死。
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川本 護(42)
中島ホテル▼爆死。経営していたホテル跡に2体の遺骨があり、住み込み女性従業員「タマ子」とみられるが、詳細は不明▼妻子と母の7人は、6月に佐伯郡湯来町に疎開していた。9日捜しに戻った90歳になる妻は「ホテルは、宇品港から出征する兵隊さんの宿所になっており、夫は軍の命令で疎開できませんでした」。
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野口 孫一(42)
調理師▼遺骨は不明。「配給食堂」2階に住み、近くの「交楽座」(元世界館)で食事の世話をしていた▼家族6人が全滅。同居していた妻の妹は長女を連れ、勤めていた爆心2・2キロの広島地方専売局(現・日本たばこ産業)で被爆。妹は「交楽座には、歌手の淡谷のり子さんらが慰問公演に来ていました」。(注・遺影なし)
妻 高木 与ネ(34)
遺骨は不明。
長女 政子(9)
中島国民学校▼遺骨は不明。(注・遺影なし)
二女 静子(7)
中島国民学校▼遺骨は不明。(注・遺影なし)
長男 弘(5)
遺骨は不明。(注・遺影なし)
二男 和男(2)
遺骨は不明。(注・遺影なし)
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市坂 勘一(51)
薪炭・氷販売▼遺骨は不明▼木挽町49番地(平和記念公園)の自宅が3月、建物疎開となり「魚善」の隣に転居。妻子5人は佐伯郡水内村へ移った。中島国民学校3年だった長男は「夏はかき入れ時で、中島の病院や商店に氷を切って卸していました」。
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中本 勝雄(40)
劇場「交楽座」▼爆心1キロの舟入町39番地の自宅で爆死。集産場に広島初の活動写真常設館として1910(明治43)年できた「世界館」(27年に洋画専門の「昭和シネマ」と一時改称)、太平洋戦争中は慰問芝居でにぎわった「五色劇場」、最後は「交楽座」と呼ばれた劇場の経営を引き継ぐ▼自宅では長女麗子(20)も爆死し、妻綾子(37)は9月3日、長男昭仁(18)は10日死去。
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三浦 静枝(30代後半)
喫茶「気まぐれ」▼集産場にあった店で爆死したとみられる▼夫と2人。夫は兵役でいた草津方面(西区)で被爆。(注・遺影なし)
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神明耕三(54)
朝日メッセンジャー▼中島本町の自宅で爆死▼妻と娘の3人が全滅。安芸郡戸坂村(東区)から米国へ渡り、帰郷後は自転車で荷を運ぶ事業を営んでいた。爆死した高橋フジコの伯父。(注・遺影なし)
妻 フサ子(不明)
朝日婦人ホーム▼爆死。家政婦の派遣をしていた。(注・遺影なし)
長女 瞳(3)
爆死。(注・遺影なし)
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岸本 浩三(14)
崇徳中3年▼動員中の三菱重工業第二〇製作所(安佐南区)から交代で出た小網町(中区)の建物疎開作業中に被爆。3日後、家族が疎開中の豊田郡安浦町に着くが、9月5日死去▼自宅は中島本町26番地で酒・しょうゆの特約販売をしていた。52年自宅跡に原爆慰霊碑が建立された際、溶けたビンが大量に見つかる。崇徳中の学徒動員犠牲者は、小網町での55人を含む計512人。 |
吉田 彦太郎(50)
「よしのや」武道具店▼中島本町の自宅で爆死。遺骨は不明▼妻と2人。妻は6日早朝、針を打ってもらうため仁保町(南区)に行っていた。
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高橋 フジコ(36)
爆死。中学2年の長男と国民学校1年の二男が8日、中島本町26番地の自宅跡で、二つの小さな遺骨と、覆いかぶさるようになっていたフジコの遺骨を確認▼空襲が続く東京から5月末、子ども4人を連れて帰郷。安芸郡戸坂村の親類宅から6日早朝、長女らを町内の越智小児科へ連れて行くため帰宅していた。
長女 昭代(2)
爆死。
三男 章(生後2カ月)
爆死。(注・遺影なし)
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中野 峯吉(56)(左)
「中野屋」靴店▼中島本町67番地の自宅で妻と二女、応召中の長男の妻子5人の計8人が爆死▼結婚して福山市にいた長女と呉の海軍にいた長男が8日、一緒に駆け付け、自宅裏の井戸跡で父のきん着袋を見つける。長女は「家族の形見だと今も大切に持っています。遺骨は数体ありましたが、どれがだれかのものか、分かりませんでした」
妻 トヨ(54)(右)
爆死。
長男の妻 スヱコ(34)
爆死。(注・遺影なし)
スヱコの長女 昌子(11)
中島国民学校6年▼登校していたらしく遺骨は不明。
スヱコの二女 治子(8)
中島国民学校3年▼遺骨は不明。(注・遺影なし)
スヱコの三女 紀代子(5)
自宅で爆死。(注・遺影なし)
スヱコの四女 和子(2)
自宅で爆死。(注・遺影なし)
二女 弘恵(25)
自宅跡に愛用のヘアピンがあった。結婚して岩国市にいたが、いとこの夫が応召となり実家に戻っていた。
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大松 孫三郎(43)
仕出し「大仁」▼中島本町72番地の自宅で爆死。9日、頭部が配達用自転車のサドルの上にあり、下腹部が地中に埋まった状態で見つかる▼妻と長男の3人。動員先の東洋製罐(西区天満町)で被爆した山陽中2年の長男は「家を出る時、両親は県庁から注文があった弁当50人分の準備をしていました」。
妻 カツヨ(40)
爆死。長男が、テーブル大のまな板の下にあった遺骨を確認。
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