佐伯 アサコ(42)
製麺業「福亀」▼遺骨は不明。中島本町3番地の自宅から、県庁があった爆心900メートルの水主町(中区加古町)一帯の建物疎開作業に出ていた▼夫と2人。夫は爆心2・3キロの吉島本町(中区)の中国塗料で被爆。西練兵場(中区基町)で動員待機をしていた弟の岡村一郎(25)も爆死
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竹縄 タキ子(47)
仕出し「極楽」▼中島本町7番地の自宅で爆死したとみられる。
遺骨は不明▼夫とおいの3人。夫は、陸軍が4月に本土決戦に備えて置いた西日本全域を指揮する第二総軍司令部(東区二葉の里)に徴用され、爆心1・7キロで被爆したものの爆心地へ戻る。本川橋そばで近所に住む下井松次郎(被爆死)から、おいの最期を聞く。「さっきまで寛ちゃんも一緒に川の中にいたが…」。
おい 寛治(11)
中島国民学校(現・中島小)6年▼遺骨は不明。呉市沖合で海軍伏竜特攻隊員として訓練を積んでいた当時16歳の兄は「弟は、下井さんと本川につかり、しきりに伯母の名を呼んでいたそうです」。
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向井 直助(61)
漆器店経営▼中島本町の住民があらかじめ避難先にしていた佐伯郡平良村(廿日市市)へ5日、妻を疎開させたが、町内会長として7番地の自宅にとどまり、爆死▼母と一緒に8日ごろ、自宅跡を捜した四女は「土蔵の地下をセメントで固め、その上に畳五枚を重ねた防空壕に押しつぶされていた父の遺体を見つけました。むごいありさまに涙も出ませんでした」。
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菅 吾郎(69)
綿布卸「天満屋」▼中島本町9番地の1の自宅で爆死▼佐伯郡平
良村に疎開していた長男の妻と比治山高女1年の孫が、自宅ふろ場跡近くで遺骨を確認。
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久保田 マサヨ(48)
陶器商「金満寿合名会社」▼中島本町10番地の自宅で爆死。遺骨は不明▼長男らとの3人。爆心15キロの安佐郡可部町(安佐北区)に7月に疎開した長男の妻は「3歳の娘を連れて中島本町に戻る支度の最中に、ドーンと天地を揺るがすような音がしました」。
長男 正昭(30)
中国海軍監督官事務所勤務▼爆心200メートルの広島銀行集会所(中区大手町2丁目)内にあった事務所で被爆。妻が9月ごろ白木の箱に入った遺骨を受け取る。「夫は5日の晩、疎開先を職場の同僚とともに訪れ、アユの塩焼きを食べて戻っていきました」。
塚本 カマ子(推定24)
「金満寿合名会社」勤務▼遺骨は不明。(注・遺影なし)
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下井 松次郎(46)
土木請負▼長男夫婦が借りていた「極楽」1階で被爆し、目の前
の本川に飛び込む。7日、南観音町(西区)の妹宅で死去▼長男は
爆心4・3キロの三菱重工業広島造船所で被爆しながら戻り、本川の中にいた父を引き揚げ、南観音町まで運ぶ。
長男の妻 ミチヱ(22)
遺骨は不明。初めての出産を控え、6日、山県郡戸河内町の実家へ向かう予定だった。運送会社に勤めていた兄の梅田修一(25)も新橋東詰め(中区大手町4丁目)で爆死。
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桐原 宇三郎(66)
洋品店「大阪屋」▼中島本町15番地の自宅で爆死▼大学生の長男
の帰省に合わせて6日朝、久しぶりに顔をそろえた親子4人と孫の計5人が全滅。(注・遺影なし)
長女 大志茂 ヨシヱ(30)
安佐郡八木村(安佐南区)から娘を連れて一人暮らしの父親宅を訪ねる。玄関跡にあった愛用の腕時計により遺骨を確認。夫は44年フィリピン沖で戦死。
ヨシヱの長女 陽子(2)
母と一緒に爆死。
長男 康之(21)
大阪大生▼弟の順太郎と台所で被爆した後、2人で逃げ出し、た
どり着いた八木村のヨシヱ宅で15日死去。「天井はりの下敷きになり、火に包まれた父をどうすることもできなかった」と言い残す。(注・遺影なし)
二男 順太郎(18)
ヨシヱ宅で13日死去。(注・遺影なし)
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河内 満(41)
金物細工「大江商店」▼中島本町17番地の自宅玄関跡で7日、安芸郡熊野町から捜しにきた父が遺骨を確認▼一家4人が全滅。兄家族と同居して修行した84歳になる弟は「ろうあの私が自立できたのは、兄が金物細工の腕を仕込んでくれたおかげです」と、旧中島本町住民による追悼法要に出席する。
妻 アキノ(37)
炊事場跡で遺骨が見つかる。
長女 笑(えみ)子(16)
広島女子商業学校3年▼母のそばで遺骨を確認。
長男 満夫(9)
熊野国民学校4年▼父の郷里に疎開していたが、夏休みになったため8月1日に帰宅。玄関跡で、子どもとみられる遺骨を確認。
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藤井 養助(53)
藤井商会▼創設した革屋町(中区本通)のせっけん会社で遺骨が見つかる。自宅は中島本町20番地の1▼妻と娘の4人。県立第一高女(現・皆実高)3年の長女と2年の二女は、動員先の広島航空(西区)で被爆。中島国民学校6年の三女と3年の長男は双三郡三良坂町の学童疎開先の一つ、光善寺にいた。長男は「秋が過ぎても迎えが来ない児童は15人くらいいたでしょうか。その心細い気持ちは言いようがありません」。
妻 ヒサヨ(40)
留守を預かっていた夫の兄宅、堺町1丁目23番地の1で爆死。戦後の整地により遺骨が見つかる。
藤井 末治郎(44)
藤井商会▼町内の防衛隊長として爆心900メートルの小網町
(中区)一帯の建物疎開作業に出て、全身やけどを負いながら歩いていたところを妻の兄が見つけ、佐伯郡の大野陸軍病院に収容。9日死去▼妻子4人は3月、佐伯郡観音村(佐伯区)に疎開していた。観音国民学校4年だった長女は「一家の大黒柱を失った私の戦後は、死ぬまで終わりません」。
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橋本 ウメ(50代後半)
表装材料販売「紀坂商店」▼中島本通りに面する店跡で、いとこの妻の弟が遺骨を確認。(注・遺影なし)
いとこ 本田 徳一(42)
県警察部情報課長▼水主町(中区加古町)の課長公舎が7月末に建物疎開となり、間借りしたウメ宅で爆死▼妻子4人は、安佐郡祇園町(安佐南区)に疎開。88歳になる妻は「夫は官服の肩章、母は弟が贈ったステンレス製の指輪で遺骨が分かっただけでも幸せです」と、今も新婚時からのケヤキのたんすを使う。
徳一の義母 山口 イワ(52)
ウメ宅で爆死▼祇園町から5日夜、長女の夫、徳一の身の回りの世話をするため泊まりがけで来ていた。
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古本 露子(32)
中島本町12番地の自宅から、安芸郡蒲刈町の疎開先に向かう途中に被爆。遺骨は不明▼子どもと義母の6人がいた疎開先に、市から天神町(現・平和記念公園)に持つ貸家が建物疎開になるとの通知を受けて5日、長男を連れて帰宅した。広島地区特設警備隊に召集されていた夫は、江波町(中区)で被爆。
長男 忠義(5カ月)
遺骨は不明。(注・遺影なし)
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岸本 秀子(31)
数珠店▼中島本町21番地の1の自宅から建物疎開作業に出たらしい。遺骨は不明▼三女と義母の3人が爆死。遺影は、中島国民学校6年と4年の娘2人が双三郡三良坂町へ学童疎開する直前に、母子4人が町内の写真館「スター」で撮影したもの。長女は「疎開先への面会が許され、会えたのは一度だけでした」。42年病死した夫の兄、丸子健造と秀雄も爆死。
三女 千恵子(8)
中島国民学校2年▼慈仙寺にあった分散教室で爆死したとみられる。遺骨は不明。
義母 セイ(66)
毎月6日は、おいに当たる秀子の夫の命日に当たるため、油屋町(中区猫屋町)の寺へ墓参りしていた。遺骨は不明。
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高橋 慎一(53)
薬剤・診療「キク薬局」▼中島本町23番地の1の店から中島地区にあった警防団の詰め所に出て被爆し、57年5月14日、尿毒症などを患い死去▼23番地の1と102番地で店を開いていた。妻と長女は宇品町(南区)の別宅で被爆、長男は疎開していた。(注・遺影なし)
種橋 政一(49)
とび職▼西練兵場(中区基町)で爆死したらしい。遺骨は不明▼中島本町23番地の1の「キク薬局」に間借りしていた。46年に復員した二男が捜し続けた末、8年後に死亡届を出す。(注・遺影なし)
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大畑 マサヱ(39)
遺骨は不明▼中島本通りの履物「沖田商店」に住んでいた5人家族のうち4人が死去。げた職人の夫は、福岡県の妻の実家を訪ねていた。夫は49年1月17日、三原市内の山中で亡くなっているのが見つかる。47歳。(注・遺影なし)
長女 トシ子(19)(左)
広島鉄道局勤務▼宇品町(南区)の事務所へ行く途中の市内電車で被爆。世羅郡西大田村(世羅町)から捜しに来た祖父が救護所で見つけて連れ帰るが、14日死去。
二女 マサ子(14)(右)
山中高女2年▼遺骨は不明。大畑家の墓をみる叔母に7年前、マサ子の元同級生から手紙が届く。「雑魚場町(中区国泰寺町)の建物疎開作業に動員されてその日、宇品町の広島陸軍共済病院(現・県立広島病院)で死んだそうです」。
長男 俊穂(5)
遺骨は不明。(注・遺影なし)
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二井谷 敏夫(26)(右)
綿布卸「二井谷合名会社」▼会社は中島本町25番地。5日夕、両親ら家族6人がいた古田町古江(西区)の別宅を訪ねて「のどが乾いた」と、妹春子と砂糖水を飲む。元柳町1番地(平和記念公園西側)の本宅で爆死。
妹 春子(12)(左)
広島女子高付山中高女1年▼爆心1・1キロの雑魚場町の建物疎開作業に出て、運ばれた似島で9日死去。広島駅裏の東練兵場近くで被爆した父が、通学定期=写真=を遺骨とともに持ち帰る。
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久保木 利三(33)
文房具卸「久保木合名会社」▼中島本町25番地の自宅玄関跡で、
遺骨を確認。5日、「肉が手に入った」と妻子5人が疎開していた賀茂郡竹原町(竹原市)を訪ねるが、その日のうちに戻った▼「ハナちゃん」(推定20代)と呼ばれていた竹原市出身のお手伝いは、県庁があった水主町(中区)一帯の建物疎開作業へ出て亡くなったとみられる。
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藤本 クヨ(43)
藤本製菓▼中島本町28番地の自宅で爆死▼夫と長男の3人。夫は
早朝、おいが疎開していた島根県瑞穂町へ自転車で向かう途中の安佐郡鈴張村(安佐北区)できのこ雲を見る。8日、自宅跡で遺骨を確認。
長男 哲男(25)
広島陸軍被服支廠(しょう)勤務▼自宅で爆死したとみられる。
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菅 静子(12)
安芸高女(52年廃校)1年▼遺骨は不明。1・2年生237人は小網町(中区)一帯の建物疎開作業に動員されて全滅▼中島本町31番地で糸問屋「天満屋」を営んでいた両親や弟、妹の6人で45年3月、佐伯郡宮島町に疎開していた。弟は「母は92歳で死んだ昨年まで姉静子の遺骨を捜していました」と言う。
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定政 文夫(45)(右)
食料品販売「フジヤ」▼中島本町40番地の1の自宅で爆死▼4人。米シアトルから37年帰郷し、店を開く。広島一中(現・国泰寺高)3年の三男は、建物疎開作業に動員された爆心1・5キロの鶴見町(中区)でやけどを負いながら帰宅し、中島本通りから慈仙寺鼻と爆心地を歩く。二男は神戸市垂水区の海軍経理学校にいた。48年米国に戻り、カリフォルニア州に住む三男は「私の心の平和は、この世界を去る時に来ると思います」。
妻 千代子(39)(左)
爆死。体調を崩し自宅で寝ていた。
長女 恵美子(20)
広島女学院専門学校(現・広島女学院大)英文科3年▼爆死。第二総軍が、米国生まれの女子学生を集め、1班約15人による24時間3交代制で短波傍受に当たる「特情班」に動員されていた。爆心1・4キロの泉邸(中区・縮景園)にあった。
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後藤 三郎(43)
ローヤル薬局▼中島本町42番地の1の店舗=写真=が7月ごろ取り壊しとなり、近くの転居先で遺骨を確認▼妻と子の4人。大分県別府市から捜しに来た弟が8日過ぎ、焼け残っていた壁に、長男と市立中(現・基町高)3年の二男が記していた避難先の伝言を見つけて佐伯郡平良村へ。
妻 義子(39)
義弟が炊事場跡で遺骨を確認。
長男 昭(18)
日本銀行広島支店勤務▼爆心380メートルの袋町(中区)の勤務先で被爆。全身にやけどを負いながら平良村まで逃げる。叔父が連れ帰った別府市で9月3日死去。
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