未完の「平和記念公園」 |
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被爆都市・広島の祈りと誓いを刻む平和記念公園。市民はもとより国内外からの訪問者は絶えることがない。半世紀前の一九四九年八月六日に公布された平和都市建設法を礎として、爆心地の跡に「平和の象徴」は形作られていった。
今、私たちが触れる平和記念公園は当初、「中島公園」と呼ばれた。広島デルタの真ん中に浮かぶ中島は、一発の原子爆弾で消し去られた。元安川対岸には原爆ドームだけが残った。その中島地区と、北側に広がる基町の旧軍用地を中央公園と位置付けて計八十五ヘクタールを「平和記念公園」とする構想があった。 「平和都市建設法制定記念号」と銘打った四九年度の市政要覧に、その一端が紹介されている。「中島、中央両公園を一括して平和記念公園として(略)世界平和に寄与すると共に、国際人交歓の一大中心地とする計画である」 しかし、原爆を身を持って受けた市民たちは、その日を生き抜くことに追われた。雨露をしのぐ住まいを手にするのさえ困難が伴った。基町の戦災者向けバラック住宅は希望者が殺到し、抽選に漏れた市民は、やむなく川土手に不法住宅を構える。被爆六年後においても、木造の市営住宅申し込みは二千三百七十八件に対して入居は六十七件。競争率は三十五倍に達した。 広島復興に力を尽くした「原爆市長」浜井信三氏(六八年死去)の下で、五〇年に「平和都市建設構想案」の策定に携わった藤本千万太さん(83)と銀山匡助さん(74)はこもごも言う。「食うや食わずの時代。構想は予算がなく都市計画上の決定には至らなかったが、市民は平和公園の建設を通じて、広島の街はどうあるべきか、夢と希望を持ったと思う」 百四十ページに及ぶガリ版刷りの「構想案」は、後書きにこう記している。 「人間の心に、いつの日か戦争への意欲が湧(わ)いたとき、この都市のことが思い出されるように。そしてこの都市がいかにして平和都市として創造されていったかを」。地球上に戦禍が絶えない限り、平和記念公園のみならず平和記念都市ヒロシマの建設もまた「未完」にある。
(西本雅実)
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広島平和記念都市建設法(昭和二十四年八月六日 法律第二百十九号) | ||
広島平和記念公園及び記念館競技設計当選図案 | ('99. 6.22) |
丹下健三氏らによる計画図を、図案はそのままに、施設名は図案の表記に従って打ち直して挿入した。図の右隅には「平和記念公園計画図▽縮尺1/2500▽平面図▽昭和26年1月4日▽広島市役所建設局計画課」とある。その6月、計画課係長に就いた銀山匡助さんは「浜井市長の相談を受け、丹下さんがこしらえた」と言う。児童センターに焦点を当てた施設計画図はいずれも英語で「1950・5・25KENZO TANGE」などの印字が残る(広島市公文書館蔵) |
中央のT字型は、原爆投下の目標となった相生橋。その下方は現在の平和記念公園(12・2ヘクタール)と平和大通りで、上方は中央公園(41・6ヘクタール)。広島市民球場(57年落成)の左上に見える球形状の建物は市こども文化科学館・図書館(80年開館)。その真上は中央公園ファミリープール(79年開園)。右側のだ円形建物は広島県立総合体育館(94年開館)。中央広場の上は、68年から10年がかりで再開発整備された基町地区の市・県営中高層住宅。高度2000メートルから撮影 |