中国新聞社が「中島本町」の被災まとめる

'99/8/3

 広島市中区の平和記念公園に眠る街「中島本町」について、中国 新聞社は引き続き遺族らの協力を得て三日、全体の被災状況をまと めた。公園内を東西に貫く旧中島本通り南側部分で、被爆した年の 一九四五年末までに亡くなった百八十人を確認した。七月十三日付で掲載した北側の二百五十六人(掲載後の新たな判明者一人を含 む)と合わせると、全体の被爆死者は四百三十六人に上った。町内 に居住していた四百三十五人の八一%、三百五十二人が四五年末ま でに亡くなっていた。

 「八月六日」に南側で居住していたのは五十六世帯、百七十五人 (学童疎開や応召は除く)で、うち百四十五人が四五年内に死去し ていた。疎開先から動員作業に出たり、建物疎開などで移った場所 で被爆死した住民関係者は二十四人、町内への勤務は八人、親族訪 問の三人が犠牲者になっていた。

 公園内にある被爆建造物で、市がレストハウスとして使う当時の 「燃料会館」の被災状況の概要も分かった。地下室にいて唯一助か った生存者が市の「原爆体験記」へ五〇年に寄せた手記によると、 三十七人がいたとみられる。今回、五人の詳しい被爆死状況が遺族 の証言を通じて判明し、これまでの調査を含めると勤務者七人の死 去を直接に確認した。

 調査は、旧住民らでつくる「中島平和観音会」が七三年、公園内 に建てた「原爆死没者芳名」碑(八九年に復刻)を基に追跡した。 碑に刻まれる四百二十五人のうち、九〇%に当たる三百八十三人 (うち「天神町南組」の住民三人を含む)と、新たに七十八人を掘 り起こした。

 しかし、被爆のつめ跡の深さを示すように、碑建立後に遺族が途 絶えていたり、世代交代も伴い親族がどこで、どのように亡くなっ たか分からないなど、爆心地の被災状況は今なお「空白」を埋める に至っていない。

 爆心地・中島の跡を中心に整備された平和記念公園では六日午前 八時から、広島市の原爆死没者慰霊式・平和祈念式が開かれる。


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