馬場初江(21)
▽進徳高女教諭▽0・7キロの中区の福屋百貨店7階にあった広島貯金支局分室。14枚。
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名柄敏子(34)
▽酒、醤油販売▽2・5キロの西区己斐駅前の自宅で、夫や3歳の娘と食事中。近くの救護所は「教室に廊下に溢(あふ)れた人々の群れは遂に校庭の木陰に迄(まで)いっぱいになって、その呻(うめ)き声叫び声は只(ただ)悲惨の一語に尽きる」。14枚。
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島本正次郎(59)
▽理髪店経営▽1・2キロの中区大手町の自宅。長女と四男を失う。市議会副議長の弟と理髪業の弟家族5人の計6人は爆心地にいて死亡。「原爆の跡をなるべく保存する様にすべし。産業奨励館が一ツ記念に残されるだけでは駄目であると私は信じる」と、広島市を「原爆記念都市」にするよう訴える。16枚。
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川内貞雄(55)
▽東洋工業(マツダ)勤務▽5・5キロの職場で勤
務中。15歳の二女は家屋疎開に出て行方不明。「心を静めて、地獄廻(まわ)りをやるが、老若男女の姿さへ判然せない者すらあり。(略)瓦(かわら)もとかす放射線千米(メートル)圏内生存者なしとの説が伝えられて居る」。18枚。
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毛利美都子(不明)
▽主婦▽賀茂郡原村(東広島市)に疎開。広島市立中学(基町高)に通っていた長男は「何時(いつ)もの様に元気よく、家を出た。そして忽(こつ)然といなくなってしまった」。10枚。
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桧垣益人(49)
▽不明▽2キロの広島駅地下道。1キロの中区大手町の自宅に戻って、妻と娘の死を知る。「最後まで愛児のために獲(まも)り通した妻の強さと偉大さに泣けて泣けてならぬ」。15枚。
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井上篤(61)
▽無職▽1キロの下柳町(中区銀山町)の自宅で妻と食事中。家の下からはい出すと「死体同然の幼児を背に半狂乱の哀れな姿、或(あるい)は親子離れじと互いに握る手と手は血を以(もっ)て彩られ、(略)人も吾(われ)も共に地獄の真っ只(ただ)中につき落とされている」。10枚。
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堀江奎子(不明)
▽不明▽2・5キロの己斐上町(西区)の自宅から弟と外出中。中区の軍需監督部勤務の父は12日死去。5日夜は、「久しぶりに一家揃(そろ)って賑(にぎ)やかな食事をする。(略)戦争はどこにあるかというような…」。15枚。
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土田弘吉(不明)
▽広島軽金属工業資材課長▽3・5キロの南区大洲の職場。負傷者を連れて陸軍共済病院で「患者同士がお互いの傷を消毒し合い、赤チンを塗り、包帯を巻き合った」。10枚。
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吉井清雄(56)
▽会社員▽3・5キロの南区宇品の会社。戦時中を振り返り「一念ただこれ竹槍(やり)とバケツに、憂き身をやつしたことは、余りにもおろかしき限りであり」。5枚。
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河野安夫(32)
▽中国配電(中国電力)勤務▽0・7キロの中区の本店1階。生後70日の二男が自宅で死去。被爆翌7日の広島は「B29の編隊が、白く光り乍(なが)ら通過した。その日も、焦げつく様な炎天下だった」。13枚。
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寛田良一(42)
▽徴用中▽3キロの徴用先、第二総軍築城部(東区)。養育していた11歳のめいが中区平塚町の自宅近くで焼死。「広島人の間に妙な噂(うわさ)が立った。それは広島からアメリカへ入国している者が多数有るので広島丈(だけ)は攻撃せんと言うのである」と、戦時下の風評を記す。12枚。
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曽川佐恵子(不明)
▽広島市職員▽1キロの市役所3階。「私は『ピカ』も『ドン』も知らないのである。気が付いた時には、はや八月七日の朝であった。市役所の地下室、防衛部長室であった。(略)ああ何と恐ろしい事であろう。みんな死人ばかりである」。父が11日死去。9枚。
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青山てい(23)
▽主婦▽軍医の夫に面会に行くため、賀茂郡内の自宅から広島駅に着いて。便せん3枚
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幸本由雄(18)
▽日本発送電中国支店勤務▽0・7キロの中区大手町の職場で勤務中。妹2人は舟入町の病院で、弟は八丁堀付近で家屋疎開に出て死去。手記の表紙に「世界人類幸福の為(ため)多くの人にこの広島の状況を御発表あらん事を御祈り致(いた)します」。31枚。
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佐々木鈴江(23)
▽三菱広島造船所勤務▽1・3キロの中区加古町の自宅。母は家の下敷きとなり、家屋疎開に出た父は行方不明。「今は一児もあって幸せに過ごして居(お)りますが、戦争は恐ろしいと心から叫ぶ一人です」。8枚。
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大前茂樹(不明)
▽0・5キロの天神町(平和記念公園)の家屋疎開作業中に被爆した知人の口述を記す。「M記者の病状は次第に悪化、十五日の日本降伏の報に感慨の涙は光っていた。再び戦争は繰り返させてはならぬ…」。記者は中国新聞社の水原智識で16日、34歳で死去。筆者は元五日市町(佐伯区)町長。8枚。
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油川渡(35)
▽生命保険会社勤務▽2キロの広島駅前の知人宅。「無数の非戦闘員まで殺戮(りく)する、何という罪悪であろう。―これが戦争である」。12枚。
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吉田マサコ(不明)
▽主婦▽2キロの中区白島中町の自宅で下敷きに。9枚。
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田中秀治(21)
▽広島工専(広島大)▽1・5キロの中区の広島大南門。安村(安佐南区)にいた母は6日、一人息子を下宿に訪ねて帰る途中に被爆。「今は骨のみとなりすりへった金歯が僅(わず)かに母を物語った。(略)平和を愛する人々の心の中よ先(ま)づ平和なれ。かくてこそ広島に真の平和が訪れる事であろう」。11枚。
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室田法雄(37)
▽第一国民学校(段原中)教諭▽2・5キロ、動員先の出汐町(南区)のテント工場。「九月十五日には三女が誕生した。この子供だけにはこの悲惨な世界を見せずにすんだと心から神仏に感謝した」。9枚。
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倉本迪(18)
▽広島高等工業(広島大)学生▽1キロの中区大手町の下宿。「私の身についているのは只(ただ)血みどろになった腕時計だけ…」。4枚。
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牧原弘(32)
▽東洋工業勤務▽1・7キロの中区鶴見橋河畔で勤労作業中。「顔は焼けたただれて、(略)耳も遠くにかすかに聞こえる」中で、終戦の報を聞く。「信じていいだろうか。信じられない様だ。かなしい様なうれしい様な気持ちだ。涙が流れる永い永い悪夢だった」。便せん4枚。
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中町いと(54)
▽主婦▽2・5キロの東区牛田本町の自宅で夫と。夫の郷里の新潟県から投稿。8月6日は「主人と二人でお経をあげまして、冥(めい)福をお祈りし、いつまでも平和であれかしと祈り、静かに一日を過ごすしますのを例といたして居(お)ります」。11枚。
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柏野梅子(39)
▽主婦▽1・3キロの西区天満町の自宅で夫と。天満川に飛び込んだ見知らぬ女児が「朝から叫び続けていたけれど、夕方潮の時大きな焼板の山と一緒に流されて失舞(しまい)ました。可愛想(かわいそう)だったと今でも思っています」。便せん7枚。
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相原勝雄(46)
▽広島財務局(広島国税局)戦時施設課長▽1・7キロの台屋町(南区)の自宅。8歳の三男が自宅で爆死し、12歳の二男も死去。財務局職員の罹災状況を「職員数は百五十名で其(そ)の中九十三名の犠牲者を出したのである」。9枚。
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長岡寅夫(18)
▽国鉄(JR)勤務▽2キロの広島駅。父と兄は中区小網町の家屋疎開に出て死去。10枚。
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岩原松枝(25)
▽主婦▽2・5キロの己斐上町(西区)の自宅庭。「元気で昨日会った母が兄が今は白骨。夢にも忘れる事の出来ないあの日…」。便せん3枚。
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天満キヨコ(39)
▽主婦▽14歳の長女は家屋疎開に出て、「八月二十日頃(ころ)より頭髪がぬけると申し見ればほんとうに、たくさんぬけていました。(略)無念にも九月八日午後三時三十五分遂に絶命いたしました」。便せん6枚。
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藤井ワイ(50)
▽陸軍被服支廠(しょう)保育所勤務▽2・7キロの職場。9枚。
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杉原節子(19)
▽営林署勤務▽0・7キロの中区八丁堀の職場から目撃した、その瞬間を「機の後方直下に浮かぶ真っ白い(実に雪の如き白さ)拳(こぶし)大の球が動くとも止まるとも分からぬ程に浮かんで、これも又(また)旭光に映えている」。14枚。
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小川春蔵(33)
▽東洋工業兵器部勤務▽5・5キロの勤務先。爆心地近く材木町(中区)の自宅で妻が死去。「自分も拾って来たスコップを手に焼け跡へたつ。一掘毎(ごと)に火が吹き出して来る。(略)あちこちと掘る中に遂に白骨を発見す。何の印もなけれど正しく逸枝の遺骨に相違あるまい。涙と汗が白骨の上に音をたてて落ちて行く」。11枚。
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田村トシエ(37)
▽主婦▽3キロの中区千田町の自宅。12枚。
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堀ヨシコ(39)
▽主婦▽2キロの西区西観音町の自宅。19歳の長女を頭に4人の子を失う。8月23日、小学5年の二男は「僕はお母さんのそばで死ぬるのだからよい。お母さんそばに居てね。はなれるのはいやだ」が最後の言葉。16枚。
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戸田幸一(不明)
▽歯科医師▽可部町(安佐北区)での被爆直後からの医療を記録。「強心剤が無い、リンゲルがない。(略)生理的食塩水で注射液を作り、五日目ごろから使用し始めた。これでもやらないより良い」。12枚。
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優信(不明)
▽会社員▽1・7キロの南区京橋町の歯科医院。「有侭(ありのまま)を表現したピカドン。この言葉が一番実感し脳裏に深く刻まれる」。11枚。
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黒木愛子(36)
▽菓子店▽3キロの中区千田町の自宅。子ども2人を連れて逃げる途中、女性から着衣を求められて「私は自分の着ている服をその人に着せ様と思って手を通そうとした。私の手はつるりとすべり、その人の腕の皮がつるりとむげた」。7枚。
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石津一博(不明)
▽会社員▽1・7キロの南区京橋町の事務所。4枚。
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檜垣徳次(不明)
▽教諭▽3キロの東区の尾長小。「十月一日から青天井で参集児童の授業を開始することになった」。4枚。
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佐藤清太(36)
▽教諭▽3キロの南区翠の知人宅。「相生橋の西詰では、二、三人の兵隊が、軍靴をつけただけの丸裸の死体を選(よ)り出し、引きずって来ては、深い穴にいくつもいくつも放りこんでいる」。6枚。
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高野鼎(42)
▽教諭▽動員学徒とともに、爆心3キロの江波町(中区)の製缶工場。妻と子ども2人を失う。「幾ら戦争とはいえ、かくまでの残虐を敢(あ)えてした米国の人道を疑い、憎しみと復讐の心を燃えたたせないではいられなかった」とつづり、「この惨禍を永久に地上から葬り去ることに努力しよう。これが私の再生の誓いであった」。14枚。
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柿田一子(34)
▽教諭▽夫と父を失う。「生き残った母が!教師!が強く強く世界平和を祈念して地下に眠る犠牲者の心を安ぜたいものである」。9枚。
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松田豪(不明)
▽広島県職員▽0・9キロの中区の県庁武徳殿。6枚。
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渡辺弥蔵(不明)
▽進徳高女教頭▽3キロの南区翠の自宅。背中に傷を追いながら翌日、中区の学校へ。「右を見ても左を眺(なが)めても余燼(じん)がまだぷすぷすしている。その中に二台のグランドピアノと、一台のアップライトピアノの残骸が灰燼の中にありありと見えている。(略)生徒は、職員は、ただ呆然(ぼうぜん)と青空を見上げた」。15枚。
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尾形静子(18)
)▽教諭▽前夜から1・1キロの中区の広瀬小に宿直。「大勢の人が親兄弟を探し求めて行きつもどりつする。(略)川の方に向かって『アイゴー』『アイゴー』と泣きわめいている」と、韓国・朝鮮人被爆者の被災に言及。12枚。
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渡辺文友(54)
▽会社員▽呉線矢野駅。和歌47首。便せん11枚。
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高中ヤス(65)
▽主婦▽南区で被爆し、自宅がある爆心地近くの中区大手町へ。娘が死去。長男が聞き書き。「あわれをとどめたのは若い母親が乳児の足もとで泣き叫ぶのをよそに川岸まで這(は)って来て水を求めながら、それが手にとどかずもがいている」。10枚。
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伊藤ハルエ(41)
▽旅館業▽広島駅で電車に乗る直前。中区千田町の自宅へ向かう途中を「行く人も来る人も、何も言わず、ただだまって通って行く。自分の進もうとする道を真っすぐに」。10枚。
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佐伯武範(不明)
▽広島市職員▽市庁舎2階。7枚。
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宮原岩男(不明)
▽広島市警防副班長▽3キロの南区北大河町の自宅から見た原爆を「赤味を帯びたる火焔(かえん)が富士山の如き形をなして其(そ)の黒煙の下にひろがって行くのであります」。10枚。
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村上敏夫(38)
▽広島市国民義勇隊本部事務長▽2キロの中区白島九軒町の自宅で家族5人と。妻は右目を失明。河原に逃げると「一望数千の避難者は半裸、全裸の火傷、裂傷に堪えて辛(かろ)うじてうごめき、親を追うて、児(こ)を追うて狂いさまようている。焼け出されて緊急避難の軍隊も命絶え絶えに故郷の母を、妻を、児を呼び続けている」。市の便せんに6枚。
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八坂秀雄(56)
▽損害保険統制会勤務▽1キロの中区流川町の自宅。「不燃都市ノ建設コソ百年の大計」。14枚。
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田中秀正(60)
▽私塾主宰▽妻を西区の広島二中(観音高)グラウンドに運び焼く。「読経に雇うべき僧なく、自分がお経を読んでも四、五行読んでは声がつまる。努力して繰り返す。どうしても同じ所で声が出来なくなる」。11枚。
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堀川長谷雄(47)
▽広島県地方木材勤務▽2・5キロの牛田町(東区)の自宅で妻と。右目を失明。11枚。
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川妻卓二(50)
▽帝国人絹広島工場勤務▽2・5キロの中区の工場事務所。23歳の長女は中区鉄砲町で死去。「当日帝人の勤労奉仕隊三十七名は、堺町(中区)の疎開作業に従事していたが、一人の例外もなく全滅した」。15枚。
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稲葉さだ子(42)
▽主婦▽2キロの中区千田町の自宅から勤労奉仕中。「午後になっても空襲警報はしきりに鳴る。そのたびに二人の子供を防空壕(ごう)へ引っ張り込む。燃えるたびに大きな建物の焼け崩れ落ちる音が爆弾が落下したかとびっくりさせる」。8枚。
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常本福次郎(不明)
▽不明▽2・5キロの東区愛宕町。7枚。
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島本智蔵(41)
▽不明▽1・7キロの中区舟入幸町。勤労奉仕に出た娘2人と父を失う。「おそらく逃げ遅れて、この業火に巻かれて、母の名を呼び乍(なが)ら、子の名を叫びつつ(略)妻も同じ想(おも)いか、じっと、猛火をみつめて、泣いていた」。13枚。
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鶴岡成太郎(35)
▽不明▽県庁近くの自宅で右目を失明。「自分は近く召集を受ける身である。(略)失敗(しま)った。是(これ)では軍人としてお役に立つ事も出来ない」。6枚。
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愛宕八郎康高(17)
▽広島高師1年▽動員先の東洋工業講堂。連
絡役として中区の高師へ向かう。6日夕刻は「御幸橋の欄干や柱はもえさしの『スミ』で『タカオココデマツ』とか『ヨシオブジハハモブジ』とか、生きた喜びと失われた人の安否を尋ねる文字で埋められていた」。10枚。
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大江基之(10)
▽25キロの佐伯郡津田村(佐伯町)に疎開。小学校で朝の清掃中、「東の方が急に『ピカッ』といなづまのように光ったかと思うと同時に『ドガーン』という音がした」。8枚。 |
前田典生(15)
▽広島二中(観音高)2年。2・5キロの東練兵場で「紺碧(こんぺき)の大空を仰いでいたのだ。その時B29のずうずうしいばかりの巨体を見つけた」。父は中区堺町で被爆し、13日死去。12枚。
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峯岡巖(不明)
▽西条農学校(西条農高)2年▽12枚。
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森本貞美(9)
▽2・5キロの中区吉島本町の自宅。「めぐり来る八月六日/広島の平和の鐘が又鳴るだろう/高らかに鳴り響け、地球のはて迄(まで)/平和の鐘よ、二度とノーモア広島をくり返すなかれ」。9枚。
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中元達子(9)
▽2キロの南区的場町の自宅前。5枚。
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富永トク子(9)
▽2・5キロの南区皆実町の自宅。3枚。
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崎家澄子(9)
▽寺の分散教室。祖父が10日死去。「だいはちにのせて県病院の前の方でやきました。さびしい事です」。7枚。
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大井博淳(9)
▽2・5キロの西区南観音町の仮校舎。「今広島は着々復興しつつあり。然(しか)し外面ばかり立派になる事より、僕達が身にしみて感じた戦争の恐ろしさを思う時、もっともっと世界に平和を呼び掛けて本当の平和広島になることを願う」。6枚。
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矢田部明〓(10)
▽3・5キロの南区の宇品小。「僕の兄さんは二十四時間もたたない中(うち)にこの世を去ってしまった」。3枚。
[お断り]〓は「喜」の略字で、七を三つ組み合わせた漢字ですが、JISコードにないため表示できません。
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氏名なし(9)
▽3・5キロの宇品小分散教室。姉が死去。5枚。
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篠田四郎(15)
▽山陽中3年。2キロの南区皆実町の航空機会社で作業中。「川にはふくれ上がつた死体が浮かんでいてなんとも言語に絶する有り様であった」。6枚。
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小畑武昭(9)
▽3・5キロの古江町(西区)の小学校。5枚。
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岡田樹宜(不明)
▽2・5キロの西区己斐本町の叔父宅。母に背負われ防空壕(ごう)に。「外をみると黒い雨が降っていましたので油をまいて丸焼けにするのではないかなと思いました」。6枚。
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小島毅(9)
▽1・5キロの西区中広本町の自宅近く。2枚。
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操田智靖(不明)
▽1・5キロの西区西観音町の自宅。廿日市市の救護所にたどり着き、「僕はムスビを一つ食べると胸がむくむくして来てはいてしまった」。8枚。
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吉村清美(不明)
▽3・5キロの南区の宇品小分散教室。父、祖母、叔母が行方不明。「人間は何の為(ため)に生れて来たのだろうか、まさか戦争する為に生れて来た者は一人もいないと思います」。7枚。
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木綿久夫(10)
▽2・5キロの東区尾長町の自宅近くの寺。3枚。
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岡島伸行(10)
▽父は「八月六日から広島にある連隊区司令部へ転勤する事になった。(略)父はこの冷たい戦争のために死んだのだ」。4枚。
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田口進一(不明)
▽執筆時は高校生。伯父の体験を聞き書き。5枚。
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西田裕二(不明)
▽執筆時は高校生。「平和な心を失った時は産業奨励館の残骸を見よ」。5枚。
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西村孝男(12)
▽「原子爆弾による破滅を防ぐ方法は(略)戦争という語を世界からなくすことなのである」。2枚。
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河村光左右(12)
▽「敗戦国民は、いや、広島市民は声をそろえて戦争を拒絶し、嫌悪するに違いない」。2枚。
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助信保(不明)
▽崇徳中4年。爆心2・3キロの西区の学校。原爆投下を「『野郎やりやあがったな…』とやりばのない憤怒に燃え立ったのは豈(あに)僕一人ではあるまい」。14枚。
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原富美子(8)
▽疎開先の戸山村(安佐南区沼田町)から自宅に戻り、母の死を知る。「一歳の弟は母の乳房をもとめて毎日毎夜泣いていました」。4枚。
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古家房江(不明)
▽広島県豊田郡に縁故疎開。4枚。
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早志幸是(9)
▽疎開先の豊田郡に「日が重なるにつれて、あの原爆の為ずるずるになった死人が運ばれて来た」。11枚。
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丸岡貢(不明)
▽2キロの白島町(中区)の学徒動員先へ向かう途中。「どこの国の人の頭の上に原爆が落ちてもがまんができないと絶叫できるのは、地獄から起きあがったからで、これこそ世界平和を求める声である」。5枚。
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向田繁昌(不明)
▽10キロの安佐南区の三菱祇園工場で動員作業中。8枚。
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岡部秀男(不明)
▽2キロの西区楠木町の小学校分散教室。5枚。
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山崎常治(13)
▽5・5キロの南区青崎の自宅。5枚。
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山辺俊治(12)
▽6キロの安佐南区長束小。「平和都市法を政治的に悪用して、単に都市復興の手段とするがごときことがあってはならない」と、執筆前年の49年に成立した国の広島平和記念都市建設法の意義を訴える。4枚。
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高田稔(不明)
▽3・5キロの大洲橋(南区)付近。6枚。執筆時は高校在学。
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佐々木博之(不明)
▽不明▽執筆時は高校在学。6枚。
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飯田亘(8)
▽戸山村に学童疎開。敗戦に「先生は言われた。『こんど正しい立派な日本を作るのは皆だ。泣くんでない。がんばるんだ』と…」。9枚。
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杉山(不明)
▽3・5キロの南区仁保町の自宅。6枚。
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天野充夫(8)
▽2・5キロの南千田町(中区)の自宅。爆死した兄を偲(しの)び、「兄が家の犠牲になってくれたのだと思うと、涙が目ににじみでてきた」。3枚。
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中尾辰雄(9)
▽2・2キロの市女(舟入高)横。8枚。
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西角玲子(9)
▽広島駅で母と妹の3人。疎開先の賀茂郡西条町(東広島市)へ向かう電車は「やけどをした人達で一杯で病院列車の様だった」。6枚。
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徳永訓子(8)
▽双三郡三良坂町に疎開。敗戦に「戦争なんてなくなるのでほんとうに平和な国になると私達もすぐに家に帰れると、思いました」。5枚。
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岡村三夫(不明)
▽被爆時は小学4年。3・5キロの東雲町(南区)の路上。翌年「さつまいもが、出来た時には本当に、これ程嬉(うれ)しく思ったことは、ありません」。10枚。
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田上清(14)
▽3・5キロの三菱重工広島製作所で作業中。広島工業学校(広島工業高)3年。市中心部は「何千米(メートル)物すごく高く、大きく、真直ぐに、雲のたつ巻をたてた様に、噴煙が天に」。17枚。
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出崎進(10)
▽2・5キロの東区尾長町の自宅で4歳の弟と。家屋疎開に出た母といた妹が死去。「広島を日本を否(いな)全世界を平和国家にする事に心から努力するのが僕達の義務である」。13枚。
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石田敏春(15)
▽4キロの東区矢賀町の工場で作業中。「此(こ)の世の事とは思われない惨状をまざまざと見ているので神経が働かなくなったのだろうと思ってみたりした」。父は23日死去。13枚。
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小石烈暉(9)
▽自宅は1・5キロの西区観音本町。5枚。
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柏野幸子(14)
▽動員先の広島駅。爆心地近くの市内電車の乗客は「腰から半分は白骨となり上半身は生焼けで…」。便せん8枚。
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山本文子(不明)
▽中区から山県郡大朝町に学童疎開。「友達の人の話を聞いていると、お母様も死に、赤ちゃんが二人死んだと言われた。その人はもう心を、落としたようにないていおられた」。6枚。
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北川五月子(15)
▽看護生徒として3・2キロの陸軍共済病院。「担架にのせて、指定の場所へ行く。そこには、はやくも多くの亡骸(なきがら)…」。13枚。
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煙井詢子(不明)
▽南区から戸山村に学童疎開。「灰色の煙はだんだん広がってぼけて来た。それと一緒に黒い物がたくさん飛んで来た」。10枚。
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倉本順美江(16)
▽山中高女4年▽3キロの広島陸軍糧秣(りょうまつ)支廠。中学1年の弟の死を見とる。「爆弾投下より三日も経(た)つ今日未(いま)だ火は衰えず」。11枚。
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吉川満昭(16)
▽3・5キロの三菱広島造船所に学徒動員中。8枚。
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高津澄枝(8)
▽2キロの西区楠木町の三篠小分散教室。2枚。
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沖広望守(7)
▽2キロの西区山手町の自宅。3枚。
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得井カヲル(7)
▽西区楠木町の自宅。母と兄、姉を失い、「原子ばく弾は平和のために使い戦いのために使わず、平和国家をうちたてたい」。3枚。
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浜中敬子(7)
▽2キロの西区打越町の三篠小分散教室。4枚。
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西本順子(7)
▽2・5キロ三篠小分散教室。2枚。
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向井勲(7)
▽2・5キロの三篠小分散教室。「たとえ戦争に勝つことことができてもその敗(ま)けた国の心を思うともう戦争はやめようと思う」。3枚。
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八木武(7)
▽2・5キロの西区三滝町の疎開会館。2枚。
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沓内満雄(8)
▽2・5キロの三篠小分散教室。3枚。
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平本勝之(8)
▽1・5キロの西区横川町の自宅。2枚。
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雛川良恵(7)
▽西区楠木町の分散教室。「私たちは日本を文化国家にするために、せんそうをしないようにして」。3枚。
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吉田稔(8)
▽1・5キロの西区中広町の自宅。「雨がやんでへいたいさんが、にぎりめしをみんなにくばってくれました。ぼくはちっともたべなかった」。2枚。
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佐々木照雄(13)
▽疎開先の安村(安佐南区)で遭った原爆は「写真をとる時のマグネシユームを燃やしたように顔がちりっと熱かった」。自宅は西区横川町。母が死去。10枚。
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久保芙水(8)
▽2キロの西区西観音町の自宅。姉が動員先で死去。「平和な世界は広島からきずき上げようと思う」。5枚。
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橋本信之(10)
▽疎開先の八木村(安佐南区)から家族を探して市内へ。「瓦やガラスはあめの様にとけていた」。6枚。
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福原宏子(9)
▽山県郡大朝町に疎開。中区流川町で祖父と姉、兄が爆死。「世界と手をつないで明るい平和、それが原爆でいためられた私達のつとめであります」。10枚。
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山根明(10)
▽疎開先で姉から母の死を聞き、「『お姉ちゃんもう泣くのはやめてねよう』と言って、僕は母の姿を目の前に浮かべて夢路についた。いつか帰ってくる様な気がしてならない」。9枚。
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山口隆三(14)
▽3キロの南区大洲の軍需工場で動員作業中。被爆5年後の広島を「インフレにもまれながらもぐんぐん復興しつつある。(略)其(そ)の中に眠っている死没者よ。日本の平和、世界の平和の為に御加護(かご)を垂れて下さい。僕等も永遠に平和を愛する」。9枚。
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不明
▽広島第二高女(皆実高)1年。2・5キロの東練兵場。「原爆の惨劇を実際に体験した肉体から真の平和を声なき声としていつも絶叫しています」。9枚。
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