スリナガルを中心にしたインド管理下のカシミール盆地からジャ ムー市やその周辺に逃れたヒンズー教徒。暫定国境(支配ライン) を越えアザッド(自由)カシミールに避難したイスラム教徒。彼ら 避難民が居ついた難民キャンプは、どこも劣悪な生活環境にあっ た。
不衛生、超過密、厳しい自然、医療の欠如、失業…。難民たちの 暮らしぶりは、過酷な条件の中で人間がどこまで正常に生きてゆけ るのか、まるでだれかがそれを試しているかのようでさえあった。
インド側管理のジャムー・カシミール地方は、インドの他地域に 比べ、宗教的対立の少ない土地柄であった。難民となったヒンズー 教徒もイスラム教徒も、そう口をそろえる。
一転したのは、ジャムー・カシミール地方の自治、独立を求める イスラム教徒の反インド武装ゲリラの活動が始まった一九八九年 末。ゲリラと治安部隊の武力衝突が死体の山を築き、復しゅう、さ い疑心が武器を持たぬ市民までをも犠牲にして行った。
武力への依存。それは戦う者たちを、彼ら自身気付かぬうちに非 寛容にする。
インドやパキスタン、アザッド・カシミール政府の援助で、かろ うじて雨露をしのぎ、胃だけは満してきた。だが、いつ果てるとも 知れぬ難民生活に、人々の疲労といらだちが募る。
難民となって既に七年の歳月がたつ。難民キャンプの暮らしが大 半の子どもや、そこでの生活しか知らない幼児が増えてきた。カシ ミール紛争の最大の犠牲者。それは、訴えるすべを知らぬこうした 子どもたちではないだろうか…。
(田城 明編集委員、写真も)