「私たちの存在は印パの国内問題として片づけられている」と
国際機関の支援を求めるファルーク・二アジさん (ムザファラバート市) |
「ジャムー・カシミール人権運動」のオフィスは、ムザファラバ ード市中心部の幹線道路から少し中に入った所にあった。
六畳ほどの広さ。事務局長で弁護士のファルーク・ニアジさん (43)が「狭いですが…」と言いながら、いすを勧めてくれた。
「スリナガルからムザファラバードに移って六年以上。今は、自 分たちの人権回復すら思うようにできなくて…」。流ちょうな英語 に、無念さがにじむ。
非政府組織(NGO)の「人権運動」は、一九九〇年四月、ジャ ムー・カシミール地方でのインド治安部隊や、反インド武装グルー プの人権侵害を監視する目的で、スリナガル市に設立された。
ニアジさんは当初からのメンバー。しかしスリナガルの治安が極 度に悪化し、身の危険を感じた彼は、設立後間もなく妻子を連れ、 暫定国境(支配ライン)を越えた。以来、ムザファラバードで同じ 看板を掲げ活動を続ける。
「でも、ここでは直接、インド軍とゲリラ側の人権侵害を調査す るのは不可能。スリナガルとの連絡すら思うようにできない」
ニアジさんらの人権運動は、自然とインド側管理地域から暫定国 境を越えた約一万五千人の人権擁護に力点が置かれるようになっ た。
「こちらに住んで初めて、自分たちがステイトレス(無国籍)に なってしまったことに気づいた、基本的人権も奪われた…」
彼によれば、国境を越えた避難民たちは、インドにも、パキスタ ンにも、そして本来、ジャムー・カシミール地方が「独立国家」と して認知されていれば「自分の国の一部」であるはずのアザッド・ カシミールにすら属していない、というのだ。
もともとこの地に生まれた住民は、パキスタン政府から「パキス タン人」としての身分証明書が発行される。それがあることで、パ キスタンで働くことも、旅行も可能である。しかしインド側管理地 からの避難民には発行されない。このためニアジさんら難民は、ア ザッド・カシミール外には出られない。
「それに…」と彼は続けた。「私自身、九〇年のころはまだ、カ シミールがパキスタンの一部になるのが最善の解決策だと思い込ん でいた。でも、それは全くの幻想にすぎなかった」
経済の破たん、民主的な政治システムの欠如…。ムザファラバー ドで生活しながら身近に見て来たパキスタン社会は、同じイスラム 教徒だというだけで、一つの国に統合吸収される魅力は何もなかっ た、と打ち明ける。彼の目には、アザッド・カシミールもパキスタ ンの「影」としか映らない。
自分がどこにも属していないというアイデンティティーの喪失 感。出口の見えない現実が、ニアジさんらの思いを一層「みじめ」 にさせる。
「根無し草状態が長く続くことで、ノイローゼなどの精神障害が 難民の間に増えている。教育レベルが高いほどそれが深刻だ」。先 程から話をそばで聞いている元新聞記者ら二人も、強い躁鬱(そう うつ)症にかかっている、という。
ニアジさんらは今、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に 働き掛け、公的に「難民」として認知されるよう求めている。認知 されれば、国際的な援助が得やすい上に、第三国への政治的亡命も 可能となる。
「今のままでは、子どもたちの将来すら絶望的だ。世界がこれほ ど狭くなり、二十一世紀を間もなく迎えようとするのに…」
スリナガルに住む両親や兄弟姉妹との連絡さえ途絶えたニアジさ ん。その焦燥感は、限りなく深い。