砲火の下生誕の地遠く/望郷


私たちの窮状を日本人によく伝えてほしい」と訴えるラジャ・カーンさん(前列左)
(ムザファラバート市)

 夜のとばりが、ムザファラバード郊外のカムサー難民キャンプを 包む。

 しかし、まだ取材半ば。できれば同じテントで一夜を明かし、難 民生活の一部なりとも体験したい…。取材途中の自治会長ラジャ・ カーンさん(53)に、無理なお願いをしたいとの誘惑にかられる。

 が、相手は妻子あるイスラム教徒。女性は写真を撮ることすら難 しい国柄である。言い出せぬまま、「明日もう一度お邪魔したい」 と言い残し、ムザファラバードのホテルに帰った。

 翌朝、再びキャンプを訪ねる。百五十人ほどの子どもたちが、三 つのテントで同じ難民となった先生から授業を受けている。

 カーンさんによると、暫定国境(支配ライン)を越えた一九九〇 年十月から二年間は、故郷に近いアザッド(自由)カシミールの住 民の世話になった。三十キロ南のこのキャンプに移ったのは九二年。 それ以後、子どものいる各家庭が金を出し合い、教師の給料を払っ ている、という。

 「でも、ご覧の通り、キャンプにいる者は数人の先生を除いてだ れも働いていない」。確かにほとんどの若者や大人たちは、所在無 げに狭いキャンプで時を過ごしていた。

 それでも暮らして行けるのは、アザッド・カシミール政府から一 日、一人、二十ルピー(約六十円)が支給されるから。五人家族のカー ンさんだと、一カ月三千ルピー。決して多い額ではないが、パキスタン では警察官らの給料と大差ない。

 「ぎりぎり食べて行けるというだけ。安心して飲める水はない し、衛生状態も悪い。夏は四五度以上にも気温が上がる。その上に この狭さ…。人間の生活ではないですよ」

 カーンさんら難民たちの切実な訴え。それは三週間前、イスラム 教徒の反インド武装ゲリラから身を守るため、カシミール盆地から ジャムー市やその周辺に逃れたヒンズー教徒難民から聞いた訴えと 変わらない。

 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)から難民として扱われ ていない点でも両者は共通していた。

 「日本や米国では、犬のえさに一日五十ドル(約六千円)もかける という。われわれ人間はわずか半ドル。援助しないのは、日本人にと ってシェイム(恥)ではないか」

 「五十ドル? 物価の高い日本でもせいぜい一ドルかそれ以下です」  日本人は「大金持ち」と信じて疑わぬカーンさんの思わぬ例え に、二重にも三重にもなった人垣から爆笑が起きた。

 変化の少ないキャンプ生活を送る難民にとって、笑いはストレス 解消の一つ。しかしそれは、いかにも物悲しい笑いであった。

 「一日も早く故郷へ帰りたい」。だれもが抱く思いが、その笑い の底に強くにじむ。「ここでは死ねん」。帰郷に唯一の希望を見い だすカーンさんは、そう言って北の空を見上げた。

 カムサー難民キャンプから、さらにムザファラバード南に位置す る二つのキャンプを訪ねた。そこでの生活環境は、テントの破れが 目立つなどカムサーより一層厳しいものがあった。

 現在、暫定国境を越え、アザッド・カシミールに逃れた難民は約 一万五千人。彼らのほとんどがクプワラ、バラムラ地区からの避難 民である。距離にしてわずか三十―七十キロ。車なら山道でも数時間 とかからない。

 しかし、暫定国境を越えてしまった難民にとって、その距離は地 球を一周するに等しい遠さなのだ、カシミール紛争が解決されない 限り…。


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