印軍が蛮行 村ごと決断/避難行


クリケットを楽しむ難民キャンプの子どもたち。 「もっと広い場所に住みたい」と口々に言った
(ムザファラバート市外)

 「ブラック・デー」の集会とデモがあったその日午後遅く、イス ラム教徒のカムサー難民キャンプを訪ねた。

 ムザファラバード市中心部から北へ九キロ。山沿いの道路から見下 ろすように灰色のテントが並ぶ。幅五十メートルほどのわずかな土地。そ の向こうは、ジェーラム川支流に至る深い渓谷である。

 キャンプ入り口で、白いひげをたくわえたラジャ・カーンさん (53)が迎えてくれた。集会に参加した彼とあらかじめ接触し、訪問 の意向を伝えていた。

 自治会長を務める彼の案内で、百八十二家族、九百三十人が住む キャンプ内を歩いた。パキスタン政府から支給されたテントは、ど れも傷みが進んでいた。六畳足らずの空間に四人から十人の家族が 住む。

 幾つかのテントを横切ると、もう行き止まりだ。男女別々の簡易 トイレが、がけのそばに立つ。キャンプの一番はずれにやや大きい テントが三つ。学校である。

 子どもたちは、強く打つとボールががけ下に転がり落ちそうな広 場で、クリケットに興じていた。この国やインドの、どこに行って も見掛ける光景…。沈んだ大人たち。遊んでいる時の子どもたちの 明るい表情だけが、ホッとさせてくれる。

 「キャンプができて五年。ここで生まれた子もだいぶいるよ」。 カーンさんは、自分のテントに戻りながら言った。「でも、死んだ 人たちもね…」

 カムサー難民キャンプの住民は、全員同じクプワラ地区のケーラ ン町から避難して来たという。町にある九つの村。そこの住民約四 千三百人が、一九九〇年十月、インド軍から身を守るため、暫定国 境(支配ライン)を越えた。

 クプワラと言えば、ジャムー・カシミール地方のインド側取材で 訪ねた地。インド政府側に付いた武装ゲリラに出会ったクプワラ市 からケーラン町までは、北西へ約二十キロ。そこから暫定国境までは 五キロもない。

 近くまで取材に出かけながら、一つの町のイスラム教徒がそろっ て故郷を離れた事実など、思っても見なかった。しかし、なぜ、住 民みんなが?

 「武装ゲリラを掃討するためにやって来たインド軍が、住民に残 虐な行為をし始めたんだ」。カーンさんの説明に、周りに集まった 男たちがうなずく。

 三十五人の若者が、ゲリラの嫌疑を掛けられ逮捕された。運輸業 を営んでいたカーンさんら町の有力者が軍に抗議に出掛けた。しか し、返って来た答えは暴力だけ。カーンさんはこの時、上下の前歯 七本を失った。

 一カ月後、七人の遺体と、顔などを負傷した二十八人の若者が帰 ってきた。七人は「武装ゲリラとして国境を越えようとしてインド 軍の反撃に遭い、死んだ」との説明。女性たちも暴行を受けた。

 「もうこれ以上、故郷にはおれない」。これから先、何をされる か分からないとの不安と恐怖が、住民の気持ちを「避難」へと結び つけた。

 村単位で深夜、それぞれ家を後にした。「持って出たのは少しの 着替えだけ…」。五人家族のカーンさんら同じ村の八百人は、険し い山道を抜け、四時間以上かかって暫定国境にたどりついた。

 運悪く近くにインド軍の駐屯地があった。

 「三歳の男の子を連れた家族がいてね。その子が泣きそうになっ て、母親が思わず口をふさいでしまった。五分後には亡くなってい た」

 午前中の集会でインド非難のこぶしを振り上げていたカーンさ ん。裸電球に照らし出された彼の目には、光るものがあった。


Menu