命がけで故郷に暮らす/村人の嘆き


インド軍に殺された子どもたちの死亡証明書を手に、 大隊本部にやって来たサラム・ディンさん(左から2人目)ら村の住人
(チャコーティ町)

 チャコーティの町はずれのパキスタン軍部隊本部に戻ってしばら くすると、四人の住民が「話を聞いて欲しい」と訪ねて来た。  いずれもインド軍の砲撃で家族を殺された人ばかり。日本の新聞 記者が取材に来るから、と軍に依頼されたのだろう。四キロの道のり を歩いて来た人もいた。

 頭に赤と白のチェックのターバンを巻いた男性は「サラム・ディ ン」と名乗った。四十五歳、と言われても、外見からは六十、七十 代に見えてしまう。印パの暫定国境となるジェーラム川のほとりで アンズとクルミ、そしてリンゴの果樹栽培をして細々と生計を立て ている、という。

 「でも、一番の働き手だった長男が殺されてからは、仕事も回ら なくなった」。ディンさんはそう言いながら、亡くなった息子さん の写真と死亡証明書を差し出した。

 「オラジェル・ディン、25歳。1996年9月25日、敵の砲撃に より死亡」

 英文で書かれた軍発行の証明書。教育を受けていないディンさん が、それを読めるわけではなかった。しかし、この証明書がなけれ ば、パキスタン政府からの三千ルピー(約九千円)とアザッド(自由) カシミール政府からの二千ルピーの弔意金すらもらえない。

 オラジェルさんは昼間、果樹園で作業中に撃たれた。昨夜も、そ して今朝も砲撃があった、という。「家から出るのが怖い。でも、 働かないとまだ小さい子どもが四人もいるから…」。ディンさんの 目は「何とか助けてほしい」と訴えていた。

 部隊本部から二キロの別の村からやって来た、赤い帽子のミア・ア クバーさん。農民で、年齢不詳の彼は、ディンさんよりほぼ二週間 前の九月十二日に、十六歳の息子、マンスーさんを亡くしていた。 やはり、畑で農作業をしていてインド軍に撃たれた、という。

 「私の家からインド軍のいる所までは、五百メートル足らず。五、六年 前から撃ち合いが激しくなった。家には敵が撃った二百発もの弾痕 がある」

 アクバーさんはさらに、同じ村で犠牲になった数人の名前を挙げ た。

 やって来たもう一人は、九六年五月に九歳と十二歳の娘さんを、 他の一人は八月に十三歳の息子さんをそれぞれ亡くしていた。

 「本当はあなたをここにいる住民たちの村まで案内したかった。 でも、これ以上近寄ると命の保障ができないので…」。通訳をして くれているムジャヒディン大隊のイジャズ指揮官(45)が言った。

 貧しい暮らしの村人たちの中には、女性と子どもと年寄りだけの 家族も少なくない、という。夫や若い男たちが、パキスタンの大都 市ラホールやカラチへ出稼ぎに行くためだ。

 「九一年まではバス二台と十台のジープが、毎日走って便利だっ た。でも、今はチャコーティまで歩かないと乗り物もない」。ディ ンさんは、病人が出た時が一番困ると嘆いた。

 「本当は、だれもが危険な故郷を脱出して、もっと安全な場所で 住みたいと思っている。でも、先立つものがないので離れることも できない」と、イジャズさんは、住民の気持ちを代弁した。

 故郷にいる限り、畑や果樹園があり、家がある。教育を受ける機 会さえなかった村人にとって、日々生存を脅かされながらも、その 生存のために「危険地帯」となってしまった故郷にとどまるしかな いのである。


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