地域の歴史 次代に託す
(2006.7.26)
夏の日差しが傾くと、数珠を手にした男たちが一人、また一人と山門をくぐってきた。広島市安佐南区川内にある浄行寺。本尊に手を合わせ、車座になると「今年の司会は誰がする?」。この八月六日に中区の平和記念公園で行う「義勇隊慰霊祭」の相談が始まった。広島菜の産地として知られる川内は「ピカの村」と長い間呼ばれた。
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浄行寺の本堂で慰霊祭の打ち合わせをする世話役の上村さん(左から3人目)ら川内の住民。上村さんが手にしているのは祖父から引き継いだ慰霊祭の備忘録(撮影・山本誉)
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一九四五年八月六日、「川内国民義勇隊」は太田川沿いに南十キロ下流の市中島地区(現在の平和記念公園一帯)の建物疎開作業に動員され、全滅した。村役場が作成し、広島県社会援護室に収められている「義勇隊連名簿」によると犠牲者は百八十三人。一説では二百人を超えた。約二百五十世帯の村は、一家の働き手を失った妻や子どもが多数残された。苦難の日々が戦後も長く続いた。
■祖父の代から
「生き残ってすまなんだ」。慰霊祭の世話役に戦後生まれとして初めて就いた農業上村利樹さん(52)は、祖父繁さん(八一年に八十六歳で死去)の口癖を幼いころから聞いて育った。繁さんは義勇隊の分隊長だった当時、虫垂炎で入院し、二十一歳の長女静美さんが代わりに出て犠牲となった。
最愛の娘を失った悲しみと仲間を死なせてしまったやるせなさ。繁さんは義勇隊が弁当箱などの荷を置いた中島の寺跡に四六年、ケヤキの供養塔を建て慰霊祭を始めた。公園そばを流れる本川左岸に現在ある石碑の建立(六四年)にも努めた。
上村さんは「自分の代で慰霊祭を絶やしては申し訳ない」と思い、祖父亡き後に世話役を担った父哲雄さんが八十歳となった昨年を機に引き継いだ。
■行事の中止も
被爆地で営々と受け継がれてきた追悼行事は、遺族の高齢化に伴い岐路に立つ。広島県は被爆五十年の翌年から死没職員の追悼式を自由参拝に切り替えた。社員六十九人が被爆死した広島ガスは、続けていた「八月六日休業」をこの年中止した。「六日に休んでいた地元企業が減り、業務に支障が出てきたため」(広報室)という。
広島市原爆被爆者協議会(会長・秋葉忠利市長)は、市内に五十五ある被爆協支部が行う追悼行事への補助金を三年前に打ち切っていた。申請件数が十四件と減ったのが理由。異論は出なかったという。被爆直後に市民を収容した比治山や青崎(南区)、佐伯(佐伯区)の各支部は行事をやめた。「手伝ってやろうという人が出てくればいいのですが…」と益田康弘事務局長(62)。支部そのものも二十一が休眠状態にある。
川内を歩き「原爆に夫を奪われて」(八二年刊)を編さんした広島県府中町の神田三亀男さん(83)は、犠牲者を悼む気持ちが急激に薄れていることに「地域社会の変容」を重ねて説いた。
「原爆を身近な地域の歴史、世代間交流の話題として語り合ったらどうか。戦争を憎む気持ちはイデオロギー的な教育では伝わらない。水が土にしみ通るように、死者を悼み、命を大切に思う人間の感情に触れる機会が要る」。追悼行事が難しくなった地域には町内会や学校の奮起を促した。
上村さんの隣で打ち合わせをしていた高崎豊さん(79)。母ハルさん(九九年に九十七歳で死去)は夫を奪われた妻たちがつくった「白梅会」の一人だった。最期まで毎月六日の寺参りを欠かさなかった。「小さな村で二百人近くが帰らんかった重みを伝えんとな」。世話役先輩の言葉に上村さんはうなずいた。
川内は百十五万都市広島のベッドタウンとなり、核家族化が進んだ。しかし被爆六十年の昨年も前日に浄行寺で追悼法要を営み、慰霊祭には幼子を連れた家族や地元の城南中生徒ら約二百人が参列した。(石川昌義)