▽見えぬ被害の実像
一九八六年四月二十六日に起きた旧ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原発事故。放射能に汚染され、二十年の節目を迎える社会の暮らしを見るため、四月末まで二カ月余り、最大の被災国ベラルーシやウクライナに滞在し、現地から記事を送った。帰国した今、史上最悪の事故が社会に与えた傷跡や、私たちに残した教訓をもう一度考えたい。(滝川裕樹、写真も)
移住・失職 健康不安も
原発事故による放射能汚染で住民の大半が去ったベラルーシ南部のグバレービッチ村。約一週間寝泊まりして取材した。地図から消えた村には、疎開を拒み、故郷で暮らし続ける、お年寄りたちがいた。
▽「村にいたい」
「ここに生きてきた証しとして、写真に残してほしい」
村外れに一人で暮らすニナ・バンダレンコ(68)に、そう懇願され、自宅を背に撮影した。六年前に死んだ夫や、十六歳で早世した長男との思い出が詰まったわが家。ファインダー越しに、ニナのほおを涙がつたうのが見えた。
「街になんか、行きたくない。本当はこの村にいたいんだ」。声を押し殺して泣いた。
約百キロ離れたゴメリ市に住む長女から長い間、そばで暮らすよう説得を受けていた。年をとって畑仕事が難しくなった。廃村には夜、オオカミや野犬がはいかいし、家畜の豚や鶏を襲う。顔なじみは、もうほとんど村に残っていない。
生まれ故郷を去る決意を固めたのは、つい最近だ。「秋にはゴメリに引っ越す。写真は必ず届けておくれよ」。その言葉が今も耳に残る。
国際原子力機関(IAEA)や、世界保健機関(WHO)などは昨年から今年にかけ、原発事故の被曝(ひばく)によるがんなどの死者数を「四千人」「九千人」「一万六千人」と相次いで発表した。被災者を丹念に調べたわけではなく、推計にすぎない数字が世界を独り歩きしている。
だが、事故の被害は、放射線の直接的な影響による病気だけではない。それは、全体像の一部にすぎない。「専門家」がはじき出した数字をめぐる論争には、事故で故郷を追われたり、環境になじめず、職を失ったりした膨大な数の被災者の存在が欠落している。
▽幕引きの思惑
現地の医療関係者には国際的に認知された甲状腺がん以外にも、「住民の病気が増えている」との声は多い。しかし、事故との因果関係が不明なため、世界の受け止めは冷ややかだ。事故二十年を機に、ベラルーシやウクライナで開かれた国際会議では、IAEAなど国際機関や当事国が、事故の幕引きを図りたい思惑もにじみ出ていた。
確かに、チェルノブイリの汚染地のように、低い線量の放射線や、食べ物を通じた内部被曝による健康影響は解明されていない。しかし、被災地の声に耳を傾けず、科学的ではないと切り捨てる態度には、危うさを感じた。
誰のための、何のための調査なのか―。被爆地広島で、被爆者が同様に抱き続けた疑問への答えは、ここでも見えてこなかった。(敬称略)
【写真説明】移住を決意し、住み慣れた家の前で涙を流すニナ。疎開を拒み、汚染されたグバレービッチ村で暮らし続けてきた
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