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ヒロシマの息吹
官僚社会 苦労重ね築く医療支援 ('06/4/12)

 どの街を訪れても、中心部にはレーニン像がある。旧ソ連の象徴だった、かまとハンマーのマークも目立つ。そんな国ベラルーシは、いまも社会主義の伝統を引き継ぐ。上意下達の官僚社会で、医療体制も中央に一極集中している。旧ソ連の医師免許を持つ山田英雄(58)=広島市中区=は、この国の流儀に合わせて、四苦八苦しながら医療支援の拠点づくりを進めてきた。

 「理屈は分かるが、この国では、上からものを通さんと動かんよ」。今回の取材の通訳も務める山田は、同じ言葉を何度も繰り返した。取材のたびに書類の提出や、しかるべき筋を通すよう求められ、怒りや理不尽さを感じてしまうが、「これがこの国の現実よ」と気にかけない。

 ▽理想抱き留学

 一九六八年、モスクワのルムンバ民族友好大学に入学した。国泰寺高(広島市中区)時代から原水禁運動に参加し、社会主義に理想を抱いて海を渡った。コースは医学部。体調を壊しがちだった被爆者の母親の姿を見て、自然に医師の道を志したという。

 大学に入るためソ連に入国した直後、「プラハの春」(一九六八年)が起きた。信頼していたソ連がチェコスロバキアに戦車を送り込み、改革を阻んだ。憤慨した。抗議するように原水禁幹部にも手紙を出した。母親は「シベリア送りになる」と本気で心配したという。

 官憲が横暴を振るい、わいろも横行していた。夢見たソ連は、息苦しかった。「どこが地上の楽園なのか」。大学卒業と同時に、学生結婚したロシア人の妻を連れて帰国した。

 縁は薄れたはずだった。再び深くかかわるようになったのは、八六年のチェルノブイリ原発事故がきっかけだ。九〇年に市民調査団に通訳として参加し、十五年ぶりにソ連を訪れた。学生時代と変わらぬモスクワの街並み。あれほど嫌になった国だったのに、なぜか涙がほおを伝った。以来、医療通訳として、現地訪問を重ねる。

 その経験から、現地に根ざした支援の必要性を痛感する。被災者との交流や、支援物資を送るのも重要だ。だが、現地は医療支援を切実に望んでいる。市民団体「チェルノブイリ支援運動・九州」(福岡県)に協力して、九七年からベラルーシ西部のブレスト州に入る。

 現地からの助言も受けて、活動の場に選んだブレストは、最汚染地のゴメリ州に次いで甲状腺がんの発生が多い。しかも、外国からの支援は手薄だった。

 ▽半年もの交渉

 「おお、ヤマダ」。現地の医療機関を訪ねると声が掛かる。ずけずけとものを言い、粗野な感じさえ受ける山田だが、日本からちょっとした贈り物を持参するなどの心配りは実に細かい。融通の利かない役人社会も、最後に頼れるのは人間同士のきずな。道理の通らない国で、下げたくない頭を下げ、人脈を築いた。

 時には押したり、引いたりの駆け引きもある。市民団体が現地の赤十字に日本円で約三百六十万円のドイツ製の検診車を贈った際、国から関税として二百万円以上を求められた。貴重な寄付で購入した車だ。そんな大金もない。半年以上粘り強く交渉を続け、十分の一近くに下げさせた。

 「もう支援活動も卒業せんといけん。わしゃ疲れたよ」。嘆いてみせるが、市民団体の若者たちを放ってはおけないだろう。何より、山田自身が旧ソ連圏の人々に執着している。<敬称略>(滝川裕樹、写真も)

【写真説明】病院の子どもたちにデジカメの画像を見せる山田さん(左端)。こわもての顔だが、子ども好きだ


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