小頭症

ほかの人には任せられない
弟より先に死んだらいけん
 


 入市被爆者の姉(71)が待つ広島市内のアパートに、原爆小頭症の弟(59)が広島県北の勤め先から帰ってきた。
広島県立広島女子大の田中弘美さん(21)と盛脇由香さん(21)が二人と向き合う。
静かな日曜の朝、窓からのやわらかな光と線香のにおいが、部屋を包み込んでいる。



 -姉
 弟が生まれるときはね、母のおなかが大きいなんて全然分からんかったんです。トタンを張り付けて建てたバラックの真ん中へ布団を敷いて(寝ていた)。そしたらまだ暗いのに、母が「ちょっと起きて」って言うんですよ。「子どもが生まれた」と。

 -田中
 お母さん一人で産んだんですか。

 -姉
 そうね。寒い日だった。抱いとると猫の子みたいにこまかった。その後はあんまり病気したこと、ないよね。

 -弟
 ないね。

 両親は広瀬北町(中区)にあった自宅で閃光(せんこう)を浴びた。髪が抜け、体に斑点が浮かんだ父は、ひと月後に亡くなった。

 -姉
 あのころは弟のことより、お金の心配しか頭になかった。夜に星を見ては「お父さんどうして死んだんね」言うて。

 病気がちの母に代わり、姉は弟の世話をし、家計を支えた。中学には通えなかった。

 -姉
 この人(弟)は学校行ってもじっと座っとれんのです。寺、今で言う塾に行ったよね。それも遊びに行ったようなもんよね。

 -弟
 あんときは(勉強)した思うよ。八十点とか取りよった。九十点も。

 -姉
 (弟の障害が)原爆のせいだと分かったのは、ABCC(原爆傷害調査委員会、現在の放射線影響研究所)に来てほしいと頼まれてから。最初は断った。ABCCは(被爆者を)モルモット扱いすると聞いていたから。

 -田中
 弟さんがいくつのときですか。

 -姉
 小学校に入る前。私がいない時、(ひょっとして)母親と行ったのかな。

 -弟
 行ったよ。車が迎えに来たんじゃけえ。夕方よ。暗かったけえ覚えとる。サンドイッチ食べた。

 ABCCは一九五一年、胎内被爆児の調査を始めた。その医学論文を基に、広島のジャーナリストたちが原爆小頭症患者を捜し当て、その存在がやっと社会に認知された。六五年、小頭症患者や家族は互いに支え合おうと「きのこ会」発足にこぎつける。

 -田中
 症状を知ったときの気持ちは。

 -姉
 生まれたときから一緒だから、これが普通と思っとった。六十年と言われても、どうしてここまで来たか。もうすぐ六十歳になるもんね。おじさんらしくなったよね。

 弟は照れたようにうつむく。

 -姉
 (弟が三十歳を過ぎたころ)知り合いがビアガーデンに連れて行ったの。その後、歓楽街にも行ったんよね。「変なことは教えんでよ」と言ったのに。遊ぶことを覚えたよね。

 -弟
 ん…。

 -姉
 遊ぶために(物品をツケで買って)質に入れるの。私は広島の質屋はずいぶん歩いた。「もうせんよ、姉ちゃん」と言いつつ、何回もするんです。

 弟は苦笑いする。

 -姉
 弟が何をしたか、目元を見たらすぐ分かるんです。

 姉は弟に問い掛けた。

 -姉
 お姉ちゃんおったら、あれこれしちゃいけん言うから。やねこいよね。

 -弟
 (笑顔で)やねこいこたあない。

 -田中
 何のお仕事されているんですか。

 -弟
 あ、クリーニングです。結構きつい。

 -姉
 (幼いころから)仕事をするように育っとるから、どこでも苦にならんのんよね。

 -盛脇
 ご主人と結婚されるとき、弟さんは。

 -姉
 母と弟と一緒に住んでもらうことで(理解してもらった)。こんなに大変とは思ってなかったんでしょう。

 母は八五年に七十九歳で亡くなった。弟は九七年から県北で寮住まいしながらクリーニング店で働いている。

 -盛脇
 私なら(夫と)二人で暮らしたいと思う。抵抗はなかったんですか。

 -姉
 置いては出られないと思った。私は二十歳、主人は二十一歳。若いからできたの。でも、子どもを構ってやったことがないの。子どもよりこの人のほうが比重が重いから。

 -盛脇
 この六十年を、どう思いますか。

 -姉
 広島によく修学旅行の生徒が来るでしょう。私があの年のころは「どうしたらお金がもうかるんじゃろう」としか考えんかった。今の広島は(原爆被害が)跡形もない。(戦時中の)建物疎開は小さい子も、女の子も、家を壊すために駆り出された。今それが、分からんじゃない。あなたらには想像できんでしょうね。

 二人は沈黙する。

 -姉
 まあ、こんなに穏やかな日が来るとは思ってなかった。家族にもこんな詳しい話をしたことない。主人にも、子どもにも。原爆に遭ったことは知っとるけど。

 アパートの窓越しに、自転車やバイクが走る音が聞こえる。盛脇さんが沈黙を破った。

 -盛脇
 あの、原爆が落ちてなかったら、人生が変わったと思いますか。

 -姉
 思う暇がなかったね。そうね、思ったことがない。

 -盛脇
 いいご主人に巡り合えたのもよかったんでしょうね。

 -姉
 だけどね、この人がおったら安心して寝られんと思ったこともある。それで二人で近くの海岸に行ってね。「頼むから、ここから海に入ってくれ」と言ったの。

 田中さんは目を伏せ、盛脇さんは言葉をのみこんだ。次の会話がなかなか切り出せない。

 -盛脇
 いつごろですか。

 -姉
 十年余り前になるよね。「お姉ちゃんにはできんけえ、自分でずっと歩いて行って。そしたら水が深くなるけえ」って。寒い日だった。誰も見る人はおらんし、だいぶ(長い時間)そこにおったよね。

 -弟
 まあええわと思った。あのとき、ちょっと…。

 -姉
 (冗談交じりに)ええわ思うなら、入りゃよかった。あんた入らんかったじゃない。

 -弟
 いや、あのときに変わったんですよ。変わったです。

 -姉
 入りだしたら私も止めたかもしれない。その時は連れて帰ったけど、あれからは(街で)遊ばんくなったかな。

 -田中
 今後のこと、考えたりしますか。

 -姉
 何とか元気でおりたい。今、私も具合が悪くなったけど、私で良かった。(体調が悪いのが)この人だったら、どこが痛いか、よう説明できんから。

 姉はふだん、弟の存在をことさらに周囲に明かしたりはしない。

 -姉
 私はどこに行ってもなるべく前に出ないように意識する。

 -盛脇
 それは原爆のせいですか。

 -姉
 (被害に遭ったのは)うちだけじゃないから。でもばかげた戦争をしないでほしい。子どもまで戦争の手伝いをするような。

 -盛脇
 このお姉さんの弟で良かったですか。

 -弟
 (笑いながら)まあ、小遣いもくれるし。

 -田中
 親子みたい。

 -盛脇
 ずっと一緒だったから。

 -田中
 他人だとここまでできないと思う。

 -姉
 それがきょうだいなんですよ。この人が元気でおってくれたら喜ばんといけんなと思うんです。この人より先に死んだらいけんと思ってます。私はこの人のおかげで、元気でいられるんです。



仕事の話を弾ませる弟(左から3人目)を見つめ、姉(右端)は「この人がいるから、私も元気でいられる」。耳を傾ける田中さん(左端)と盛脇さん(撮影・山本誉) 





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原爆小頭症

 妊娠初期の胎内で高線量の原爆放射線を浴びると、知的障害を伴う重度の小頭症として生まれることがある。近距離被爆に症例がみられ、身体器官に障害を負う場合もある。厚生省(当時)が1967年、「近距離早期胎内被爆症候群」の病名で、患者の症状が被爆に起因していることを認めた。

きのこ会
 ジャーナリストや作家の山代巴さん(故人)たちでつくる「広島研究の会」が1965年、原爆小頭症患者や親たちに呼び掛けて発足した。原爆症としての認定▽親子の生活の終身保障▽核兵器の完全廃棄―を目標に6家族でスタートし、最大時には22家族に広がった。今年3月現在で17家族。親の死去や高齢化で活動力が低下したため、会を支援するソーシャルワーカーたちが96年、「きのこ会を支える会」を発足させた。




 



 語り終えて


前に出る勇気ない

 広島の人はみんな、原爆で大切な人を失っている。大変なのは私らだけじゃない。だから、弟の障害が原爆のせいとはいえ、なかなか前に出て行く勇気はありません。
 何があっても切れないのが、きょうだい。憎めないのが、きょうだい。今みてやれるのは私しかおらんのです。私がおらんようになったら、病気しても医者に詳しいことをしゃべれんのです。ずっと一緒だった私だから分かってやれる。ほかの人には分かりません。今思うのは、弟よりも一分でも長く生きること。





 聞き終えて

田中さん
二人のきずな感じる

  これまで二人が経験してきた苦労は、私たちの想像を絶していた。なぜお姉さんは逃げ出さなかったのだろう。いろんな疑問がわいた。対談を終えた今、言葉で説明できないほどの強いきずなを二人に感じている。すべての疑問の答えは、そこにあると思う。
 勇気を出して、人生を語ってくれたお姉さんに感謝したい。私も子どもの世代にまで伝えたい。



盛脇さん
自分の楽しみ どこへ

 隠れるように、目立たぬように生きてきた二人。お姉さんは「遊びは知らなくていい。知らない方がいい」と言った。自分の楽しみはどこにあったのだろう。戦後の生活苦で、年齢よりずっと大人になることを強いられたのなら、切ない。
 私には当時を実感することはできない。二人からうかがった話は、私の心の奥深い所に静かにとどまっていくと思う。



担当記者から

  忌まわしい人体実験

 弟は胎内で浴びた放射能で原爆小頭症となり、姉はそれを疑問に思う間もなく、がむしゃらに生きてきた。つらさ、悲しさと、生き抜く強さと。対話を聞き、いろんな感情が押し寄せてきた。病弱のまま亡くなった母の無念も思った。
 同情するのはやさしい。だが、家族が心安らかに暮らせる社会をつくるのは難しい。そして、あまたの人生を変える原爆を、人類が人類の頭上に投下するという忌まわしい人体実験。考えれば考えるほど、やるせなくなる。(門脇正樹、加納亜弥


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