孤児と笑顔と

あきらめの境地から出発
良くなるばっかりでしょ
 


 広島大大学院の卜部匡司さん(28)と植村広美さん(28)は、
梶山敏子さん(64)が広島市南区の自宅隣で営むお好み焼き店ののれんをくぐった。
被爆し、孤児として生きた梶山さんの戦後を、熱い鉄板越しに語り合った。



 -卜部
 うどんのダブルにネギを。

 -植村
 私はそばで。

 -梶山
 はい、ちょっと待ってね。

 鉄板に油を引き、まずめんをいためる。

 -植村
 だんなさまも被爆されたんですか。

 -梶山
 そうよ。比治山本町(南区)でね。私は上天満町(西区)で。

 -植村
 おいくつで。

 -梶山
 だんなさんが五歳。私は四歳。

 -植村
 お好み焼きは、いつごろから。

 -梶山
 昭和四十(一九六五)年。息子がはいはいを始めた時。おぶって世話しながら、細々と四十年やってこれたの。

 -植村
 ふーん。

 -梶山
 私のお父さんは被爆前に結核で、母親は原爆で亡くなった。私は母方の祖父母に、弟は父方の祖父母に引き取られた。今は弟夫婦と一緒に住んでるの。小さな仕事だけど、主人が毎朝市場に材料を買いに行って、妹が準備して、弟が鉄板を磨いてくれてね。

 -卜部
 いいですねえ。

 焼き上がった。

 -梶山
 どうぞ。おいしいでしょ。

 -卜部
 ええ。

 -梶山
 質問は。

 -植村
 被爆した時のことを覚えてますか。

 -梶山
 四歳だったから覚えてるのは、がれきから出たことくらい。母親は十日市町(中区)に建物疎開に行ってた。

 -卜部
 被爆して思ったことは。

 -梶山
 みじめだなって。小学校の時の母の日に(学校から)白いカーネーションをもらうのが屈辱的だったね。親が生きてたら赤。今じゃあ笑い話のように思えるんよ。(確かめるように)私、暗くないでしょ。

 -植村
 たくましく生きてこられたんですね。

 -梶山
 何事も考え方しだい。どうにもならんことは、ならんの。

 -卜部
 そう感じられたのは、いつごろ。

 -梶山
 性格なんよ。(間を置いて)今日は忙しかったけん…。時差ぼけもあってねえ。

 話題が突然変わり、二人は戸惑う。

 -梶山
 ヨーロッパ旅行に行ったけん。プラハとね、ウィーンとね、ブダペスト行ったんよ。リッチでしょ。ちょっと考えられんでしょ。

 -植村
 海外旅行が好きなんですか。

 -梶山
 主人がマラソンやってて。ハワイのホノルルにも行ったね。

 -植村
 すごい生活してますね。

 -梶山
 皆さんがお坊っちゃま、お嬢ちゃましてる時に頑張ったからね。うらやましがる人もいるけど、「あなたはいい時があったじゃない。私は今になってようやく楽しめるんじゃから許して」って言ったら、誰も文句は言わない。

 -植村
 ご主人のことを聞かせてください。

 -梶山
 お父さんを戦争で、お母さんを原爆で亡くした。クリスマスに自分で靴下を作ったらしいんよ。窓に下げても(翌朝)何にも入ってない。私は、おじいさんやらおばあさんがくれたからね。だから、いい奥さんでいようと思うのよ。「(広島)子どもを守る会」が主人との出会い。

 -卜部
 どんな会なんですか。

 -梶山
 広島大(教授)の森滝市郎さん(一九九四年に九十二歳で死去)や、(児童文学作家の)山口勇子さん(二〇〇〇年に八十三歳で死去)らもおって、原爆で親を亡くした子どもに精神親を世話してくれたんよ。学生と一緒にね。今で言うボランティア。

 -植村
 (精神親には)どういう方が。

 -梶山
 日本から世界まで、いろんな人。

 -植村
 梶山さんの場合は。

 -梶山
 (広島市内で)事務機械の会社をしてる社長だった。もう亡くなられたけどね。誕生日をずっと祝ってくれよった。オルゴールやケーキをもらったり。うれしかった。(交流が)手紙だけだった人もおるみたいよ。(精神親が)外国の人とかで。

 結婚の話題に。

 -梶山
 主人とも、好きで結婚したんじゃないんよ。

 -植村
 出会いは。

 -梶山
 テレビ結婚式。

 -卜部
 ええっ。

 -植村
 番組の企画ですか。

 -梶山
 (テレビ局の)開局記念だったと思う。二人とも広島大の中野清一先生(一九九三年に八十八歳で死去)の研究室に出入りしよって、選ばれたんよ。「原爆孤児同士の結婚はないですか」と、先生に依頼が来てね。

 -植村
 お互い知ってたんですよね。

 -梶山
 ですけどね。恋愛関係はなし。私も主人も、先生を信頼しとったから、間違いないでしょうということで。

 -植村
 当時のビデオはありますか。

 -梶山
 当時、ビデオはございません。写真も白黒。

 -卜部
 その前は。

 -梶山
 中学を卒業してすぐ東観音町(西区)の米の配給所で働き、精神親の所で花嫁修業もしよったんよ。(結婚したころの)アルバムがあるの。見ますか。

 お好み焼きを食べ終えた二人は、店の二階に上がった。

 -梶山
 式はスタジオであったの。(シャンソン歌手の)石田好子さん、森滝さん…。昭和三十七年三月二十七日よ。

 -植村
 つながりが多いですね。

 -梶山
 去年、(児童文学作家の)那須正幹先生の本に登場したの。お好み焼きを紹介する本だけど、私んとこは原爆の話ばっかりだった。

 -植村
 どんなことも笑って話されますね。

 -梶山
 今は幸せだからね。カラッと言えるようになった。わらをもつかむ思いで生活してきたでしょ。過ぎてみれば、帳尻が合うようになってる。

 -卜部
 プラスマイナスゼロ。とても新鮮。これまで会った被爆者は「戦争や核兵器はいけません」と、とにかくそう伝えてくれって感じだった。

 -梶山
 それがないでしょ。

 -卜部
 なぜ。

 -梶山
 生きていくのに一生懸命で、物心ついた時には、あきらめの境地から出発してた。じゃから、後は良くなるばっかりでしょ。

 -卜部
 ゼロからのスタートか。

 -梶山
 誰の力も借りんかったわけじゃない。皆さんがあって今の私があるのはよく分かってます。まずは自分が幸せでないと、周りの人を幸せにできんこともね。

 -植村
 広島のイメージが変わった。私は大阪出身です。梶山さんは被害ばかり話すと思ってたけど、そうじゃない。

 -卜部
 憎しみや恨みの言葉が出てこない。こういう伝え方もありだと思う。説得力がある。

 精神親の話題に。

 -植村
 精神親をどう感じていましたか。

 -梶山
 ありがたかった。その助けがあって今がある。

 -卜部
 精神親から学ぶ無償、慈善の思い。そこを(皆が)受け継ぐべきだ。

 終始笑顔だった梶山さんの表情に一瞬、影が差した。

 -梶山
 まあ、いいことばっかりじゃなかった。支援してもらわにゃいけん立場が情けなかった。バラック暮らしも、それはそれで気楽だったからね。精神親の家で、習い事までさせてもらって、ありがたいんだけど…。早く逃れて、(自分で)生活を築きたい気持ちが多分にあったね。

 -卜部
 そう思うこともあるでしょうね。

 -梶山
 悲しいこともあったけど、それを乗り越えて今がある。人生って、そういうことでしょう。ね、やっぱり。




「月や星を見て涙流したこともあったんよ」。お好み焼きを仕上げながら、梶山さん(右)は家族を失った体験を気丈に昔話のように語る。植村さん(左)と卜部さんが表情に見入る(撮影・藤井康正)  



全国に生中継された梶山さん夫妻のテレビ結婚式=1962年3月27日(梶山さん提供)





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原爆孤児

広島と長崎の原爆被災の場合、親が生存していても放射線の後障害などで生活が困窮する家庭も多かった。それらの子どもも含め、広い意味での「原爆孤児」の言葉が使われてきた。
 広島では、戦禍を避けて広島県北などに疎開した学童が約2万2000人いた。うち、約4000―5000人が原爆孤児となったとされるが、実態はつかめていない。




 



 語り終えて

梶山さん
身近な平和大切に

 二人は私の話を聞いて「被爆証言のイメージと違う」と驚いていました。被爆の状況を詳しく覚えてない私にとって、思い出すのは親がいなくて貧しい生活。新鮮だと言われたことは、なんだかうれしかったです。
 私たち夫婦は、どちらも両親を失いました。だから自分たちの子どもたちには好きなことをさせたかった。大切な家族を失うわけにはいかなかった。若い世代に多くは望まない。でも、かけがえのない家族や、身の回りにある平和から大切にしてほしいです。





 聞き終えて

卜部さん
できること考えよう

 梶山さんの人生は、お好み焼きに凝縮されていた。ヒロシマは、千羽鶴などがなくても、十分に継承できると感じた。
 梶山さんは、境遇を受け入れ、人生をゼロからつくり上げてきた。過去を振り返るのではなく、将来に向かって、できることを考えよう。幸せに生きる方法はいくらでもある。まずは身の回りから―。そう語りかけているようだった。



植村さん
克服パワー伝えたい

 神妙な面持ちをしなければ、大変な災難に遭われた被爆者の方に失礼に当たると最初は心配していた。でも、梶山さんは明るく、楽しく聞かせてくれた。とても衝撃的だった。
 悲惨な体験ばかりでなく、周囲のサポートや、苦難を乗り越えた被爆者のパワーも伝えていく必要がある。それを聞いた私にも語り継いでいく義務がある。



担当記者から

  「複雑な思い」忘れない

 被爆体験を快活に語る梶山さんは、まれな人なのかもしれない。だからいっそう若者たちに新鮮に映り、その心を突き動かしたのだろう。
 実は、孤児として生きた複数の人から、「つらいから」と取材を断られた経験がある。「マスコミはいやだ」とも。今も声に出せない心の傷の深さをあらためて思う。喜びや悲しみだけではない。複雑な思いを抱えて生きてきた被爆者がいることを忘れずにいたい。そして、それを笑顔で包んだ梶山さんの心の深さにも感謝したい。(門脇正樹、加納亜弥


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