目撃者

軍の命令でシャッター切った
視線が合い涙―申し訳なかった
 


 陸軍船舶司令部写真班員だった尾糠政美さん(83)=島根県川本町=は、
広島工業大専門学校(広島市西区)二年の土佐岡恭大さん(20)、福森卓也さん(19)とともに広島港(南区)を訪れた。
六十年前、船舶司令部はここにあった。
熱線に焼かれた被爆者を撮影した似島が、約四キロ沖で黄砂にかすんでいる。




 -土佐岡
 僕らは先日、ろうあ者の手話での被爆証言をビデオで撮影したんです。尾糠さんはカメラマンだったんですね。

 -尾糠
 (陸軍船舶司令部の)写真班でね。カメラばっかりで仕事しよったです。

 主に、出兵先から帰ってくる兵隊たちを撮影していた。原爆投下の前日、皆実町(南区)で暮らす母と別れ、楠木町(西区)の借家に引っ越した。家族を分散し、空襲による全滅を防ぐためという。あの日は、早朝に自転車で家を出て、司令部で将校の訓示を聞いていて被爆した。

 -尾糠
 訓示を聞きながら、飛行機見ようったけえね。ピカッと光って、ちょっとしてドカーン。(家を)早めに出て助かった。すぐその場へ伏せたんです。普通のように出とったらねえ、ちょうど平和公園(中区の平和記念公園)のところでやられとりますから。運がえかった言やあ、えかった。

 傷ついた被爆者が司令部に押し寄せ、光景は一変した。市内在住者は帰宅が許され、尾糠さんは皆実町を目指した。

 -尾糠
 誰もおらずね。家は傾いたようになって、ガラスは吹き飛ばされて。近所を捜してみたんですが、知人もおらずね。(遺体の)むしろをはぐって母の名前を呼んだり。写真どころじゃあない。

 母は買い物のため大手町(中区)に向かったらしいが不明のままだ。尾糠さんは翌八月七日、軍の命令で衛生兵と似島へと渡った。

 -尾糠
 においがするんですよ。焼けただれた人ばっかり。撮影するのにねえ、すまんが、臭いんですよね。

 -土佐岡
 ファインダーを通して何か感じましたか。

 -尾糠 まともにはおられません。三脚を持って行って女の人の背中を写せ、(と兵隊に)言われてね。早う帰りとうてやれんかった。

 -土佐岡
 撮るとき(被爆者の)顔はどんな感じだったんですか。

 -尾糠
 これ見ていただけりゃあ、分かりますがね。

 尾糠さんは、広島原爆被災撮影者の会が一九八五年に出版した写真集「被爆の遺言」を開いた。

 -土佐岡
 (被爆者の)表情は覚えておられますか。

 -尾糠
 ファインダー越しに全身やけどした男の人がこっちを見よる気がしてね。見ちゃあおらんのんかもしれませんがね。動くわけじゃないしね。

 -土佐岡
 いきなり地獄絵図じゃないですか。どういう気持ちで。

 -尾糠
 無我夢中でやっとりますけえね、詳しいことはよく覚えとりません。思い出すのも嫌な気がして。まずまあ、ひどいもんですよ。どう言うてええですかねえ。

 -土佐岡
 自分の写真が後世まで残る使命感を感じましたか。

 -尾糠
 そういうことは感じんです。

 若者二人は後日、「もっと聞きたい」と島根県川本町の自宅に尾糠さんを訪ねた。尾糠さんは似島で撮影した写真を取り出した。

 -福森 シャッター押すのにためらいは。

 -尾糠 まあねえ、命令だけえね。「早うシャッター切って次の場面も写せ」と。(負傷者と)視線が合うんです、写すときに。まだこのとき、生きとったですよ。

 熱線で背中を焼かれた女性が写っている。原爆資料館(広島市中区)にも尾糠さんの写真三点が展示されている。若者二人は事前にじっくり見学していた。

 -土佐岡
 資料館で自分の写真を見てどう思いましたか。

 -尾糠
 どう思うと言われても…。

 -福森
 今の若い人たちや外国の方が見て、原爆の悲惨さを知るわけですよね。

 -土佐岡
 資料館で尾糠さんの写真を見た女性が「ああ悲惨だなあ」って。伝わっていましたよ。

 -尾糠
 今考えてみりゃあ、申し訳ないです。(被爆者たちと)視線が合うたら涙が出たですよ。ほんまに残酷な写真でしょう。まだ息をしよった人もおったですけえね。恨まれるだろうな思うて写したですよ。はあ。若いときだったら、悲惨な状態を分かっていただける話ができたんでしょうが。病気してからねえ、すぐ忘れてね。

 尾糠さんは過去二度、脳梗塞(こうそく)を患い、わずかに言語障害が残ったという。

 -尾糠
 (写真は)だいぶ撮ったがね。焼いたからね、司令部の外へ穴掘ってね。命令で。

 米軍の検閲を免れるためだったという。尾糠さんは、一部を手元に残すよう命じられた。

 -土佐岡
 広島は原爆以前には、さほど空襲はなかったんですか。

 -尾糠
 爆弾を受けた記憶はあまりないですね。広島は軍都じゃけえ、最後に落とそういう気があったんでしょう。それが原爆じゃったんでしょうね。写真機持って市内を動いたですがね。(被爆者が)しゃがんで「水くれ水くれ」と。

 尾糠さんは、似島行きのほかは市内で撮影を続けた。合間に母の行方も捜したが、やはり分からなかった。

 -土佐岡
 被爆者に水をあげたのですか。

 -尾糠
 あげたのもあるが、水がない。かわいそうで。もう無残でね、どうもしようがないですわねえ。こうやって(自分が)生きとるのが悪い気がして。みな死んでしもうた。男の子が、壁に(もたれかかるように)座って手を挙げてね、目が爆風でころっと出てね。それを写したのもあります。防火水槽へ頭をつっこんで死んどる人もだいぶ見た。これは見ただけ。まずまあ、(詳しくは)覚えとらんですがね。

 -土佐岡
 広島の若者にどんなことを伝えたいですか。

 -尾糠
 どう言うてええですか。まずは元気で気をつけて…。

 言葉が途切れがちになる。

 -尾糠
 (自分の)同級生もどんどん亡くなる。年賀状が来んようになり、同窓会も二、三年前からないし。寂しいもんですが。

 -福森
 今もいろんな国が核兵器を持っているじゃないですか。

 -尾糠
 北朝鮮にしても中国にしても、(何のために核兵器を持とうとするのか)分からんですよねえ。終わりですよ。もう二度と、ああいう残酷な戦争だけはやめてもらいたい。はあ。残酷な写真でねえ…。

 尾糠さんは再び、自分が似島で写した女性のことを話題にした。同行した兵が、掛けてあったむしろを取り、焼けただれた背中を撮影するよう命じたという。

 -尾糠
 目をそむけたくなるのも言わりゃあしません。まだ、本人は生きとるんだから。会えるものなら会うてみたい。撮影した断りを言わにゃあいけんなあと。遺族のことも考えてみたりねえ。(女性の背中に)掛けてあるのを(兵隊が)はぐってですからねえ…。(撮影は命令だったとはいえ)何とも言えません。考えてみてくださいや。

 -土佐岡
 でも、写真って力があるなあと思います。話を聞くだけでもイメージはできますが、写真は疑似体験できる。

 -尾糠
 私もそう思います。



熱線に焼かれた被爆者を写した似島を望み、土佐岡さん(右)と福森さん(左)に撮影の苦悩を打ち明ける尾糠さん(撮影・荒木肇)



爆心地から東へ250メートルの紙屋町交差点付近で被爆した路面電車。奥の建物は左からキリンビアホール、大林組広島支店、安田銀行広島支店(1945年8月12日、川原四儀さん撮影、原爆資料館所蔵)



陸軍船舶司令部写真班。後列左端が尾糠さん。ともに壊滅した街を撮った川原四儀さん(前列左端)の姿もある(尾糠さん提供)



熱線に背中を焼かれ、似島に運ばれた女性。尾糠さんは当時、撮影にためらいを覚えた(1945年8月7日、原爆資料館所蔵)


尾糠さんが似島で撮った全身やけどの男性。「ファインダー越しに目が合った」という(1945年8月7日、原爆資料館所蔵)


陸軍船舶司令部に収容された負傷兵たち(1945年8月、尾糠さん撮影)




●クリック 

広島原爆被災撮影者の会

 原爆被害を撮影した写真の保存や、撮影者の著作権保護を目的に、陸軍船舶司令部写真班員だった尾糠政美さんや同僚の川原四儀さん(1972年、49歳で死去)をはじめ、プロ・アマの写真家たち計20人(故人も含む)が1978年7月に設立した。元中国新聞社カメラマンの松重美人さん(今年1月、92歳で死去)が会長を務めた。
 結成3年後の81年、写真285カットを収録した「広島壊滅のとき―被爆カメラマン写真集」を出版した。製本の諸経費を除いた売上金は、広島原爆病院(中区、現広島赤十字・原爆病院)に寄付した。85年には、このうち80カットを抜粋した普及版「被爆の遺言」も出している。
 メンバーの大半は既に亡くなり、生存者は4人。写真集は2冊とも絶版になり、広島市立中央図書館や原爆資料館(いずれも中区)などで閲覧できる。




 



 語り終えて

尾糠さん
見てもらえれば分かる

 申し訳ない。全身を焼かれ、苦しんでいる人に向かってマグネシウムをたいたことを心からわびたい。まだ息をしとった人もいたなあ…。本当に残酷なことをしたもんだ。語らんといけんとは思うんですが、よう言えんのです。聞かれることに答えんといけんと思うてはおるんですが、うまく話せんのです。
 当時のことを思い出すたびに、それらを見てもらいたいという気がします。しゃべらんくても、写真を見てもらえれば分かる。見てほしいのです。



 聞き終えて

土佐岡さん
心に伝わる映像 後世に

 言葉だけでも原爆のイメージはわくけど、本当の惨状や悲惨さはなかなか伝わらない。写真はその場にいるような疑似体験ができ、伝える「力」があると思う。事実、尾糠さんの写真から、残酷さや悲しみ、苦痛が心の奥底に伝わってきた。
 自分たちは映像を介して記憶を残していく。後世の人々の心に伝わる映像を残していきたいと強く思った。



福森さん
写真に宿る事実の重み

  小学生のころから何度も原爆資料館を見学してきた。その中で一番印象に残っているのは、やはり被爆者の写真だ。
 「申し訳ないことをした」とためらいつつもシャッターを切った尾糠さん。本当に撮りにくかったと思う。でも六十年前に尾糠さんの瞳に映った光景は今、さまざまな人たちに悲惨さを伝えている。二度とあってはならないと訴えている。





担当記者から

  カメラ向けた 心境ひしひし

 惨状から目をそむけずに報道する心構えについて、記者は尾糠さんから助言を得たいと思っていた。しかし、被爆者にカメラを向けた当時の心境を語るとき、尾糠さんは何度も言葉を詰まらせた。
 朝刊一面に掲載した今回の三人の対談場面の写真を見てほしい。ハンカチで目頭を押さえる尾糠さん。「語らずとも、伝わる」。胸にスッと落ちた。
 尾糠さんだけじゃない。心ならずもシャッターを切った目撃者たち。その記録から学びたい。(桜井邦彦、門脇正樹


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