日本に在りて

いじめや差別が戦争起こす
「世界びと」になってほしい
 


 在日韓国人二世で被爆者の郭福順さん(76)が、
在日韓国人三世の徐麻弥さん(21)と朴依子さん(20)、広島修道大四年の田中裕子さん(21)に体験を語る。
あの日の朝は、近所の女性が配給米を取りに行こうと誘いに来た…。



 -郭
 慌てて支度に取り掛かったんです。モンペに足を入れようとしたとき、家がグラグラと崩れ、下敷きになって。「助けてくれ」と怒鳴ったんですが、静寂。何回か叫んでるうち、この世のもんとも思えない(被爆者の)悲鳴が聞こえてきたんです。

 十七歳だった。爆心地から約九百メートルの大手町(中区)に住んでいた。がれきを何とか抜け出すと、近所の女性は、やけどで裸同然になっていた。すぐに、はぐれた。自分は靴代わりに板きれをワンピースの布で足裏に結び、西へ逃げた。火を避けるため、観音橋東詰め(中区)で天満川に入った。

 -郭
 長う入っていると寒いんです。川から出たり入ったりして過ごしたと思う。

 郭さんと若者三人はその観音橋へ。

 -郭
 炎の中から肩を並べ、焼けた顔が誰だか分からない学徒二人が現れた。眠るように息を引き取った女性がいた。

 学徒も全身が焼かれ、裸同然だったという。聞いている田中さんの涙が止まらない。

 -郭
 そのときは理解していないわけです。裸がどんだけつらいかとか、けが人を置いて逃げる気持ちとかを…。自分もひどい目に遭うとるわけで、水に浮いとる人をお化けのように怖がったことに、(後になって)「ごめんね」って思いがあるんです。


 -田中
 在日韓国人として、どう生きてこられたか、お聞きしていいですか。

 -郭
 私は四歳か五歳くらいで母親に死なれて家族がバラバラ。親類に引き取られ、工事現場をめぐっていたんです。柱の立った家に住んだのは昭和五十(一九七五)年。それまでバラックだったり、小屋だったり。

 -徐
 転々とするとき、日本人からいろいろ言われたりとかは。

 -郭
 一人一人はいい付き合いしてるんですよね。ちいと意地の悪い人もいますでしょう。でも、あっちがおかしいと思えば腹も立たないし、憎むこともない。小学生のころ、いじめられて泣いていた私を助けてくれた子がいてうれしかった。それが私の生きる姿勢をつくってくれた。

 -徐
 被爆者健康手帳はすぐ支給されたんですか。

 -郭
 私は昭和三十六(一九六一)年に手帳をとりました。日本人で手帳を持っている二人の証人がいると言われて。私は町内会長とかが生きとられて(証人になってもらった)。韓国人は固まって生活していたんです。その人たちは、だれに証明してもらえるのかなって思いました。

 現在も手帳取得の証人は原則二人が必要だが、国籍要件はない。

 -徐
 手帳をもらうまで医療費負担は大変でしたか。

 -郭
 そうですね。私は病院へ行かんほうが多かったね。生活がギリギリいっぱいで。それでようここまで生きたというのはあるんよ。

 郭さんは、周囲の援助で市民使節団の一員に加わり、一九八七年夏に訪米したことを話題にした。国務省を訪問したときのことだ。

 -郭
 若い役人が一人出てきて「広島、長崎への原爆投下は決して間違いじゃない。そのために早く戦争が終わり、少なくとも二十万人という兵隊の命が救われた」って。私は髪の毛が全部逆立つ思いで、泣くしかできんかった。

 原爆は広島と長崎で一九四五年末までに、二十万人以上を犠牲にしたとされる。

 -郭
 何も知らん赤ちゃんや老人まで無差別に殺しとって。何が二十万の兵隊ですか…。原爆が使われたら、地球はだめになる。人を殺しに行く戦争も絶対いや。

 郭さんが被爆体験を証言していこうと決意した契機だった。だが、病苦に悩まされ続ける。九八年には、尿道がんなどを宣告された。

 -郭
 全然怖くも痛くもなんともなかった。(四人の)子どもは全部育っとるでしょう。私の責任みな果たしとるし、「今倒してくれてありがとう」という感じじゃった。

 -徐
 それまで大きな病気はなかった?

 -郭
 いろんなことがあったんよ。胃けいれんじゃったとか。でも、誰かに言うたりはしなかった。小さいころから親がおらんで、頑張ることが身に付いとったんよね。(寝込んで)どうしょうもない状態になったのが七十歳のとき。でも、「こんなに幸せなことがあるん」という気分だった。週一回シーツ替えてくれて。休みもろうたと思うたもん。

 「本名宣言」した徐さんが、名前のことを切り出した。

 -徐
 私は自分が本名で生きることに意義を感じてるんです。在日と打ち明けても、周囲はその立場や存在を理解してくれないのが苦しかったし。本名だと、何も言わなくても気付いてもらえて楽になって。通名を名乗り続けることは、差別とか植民地時代を認めることになると思うんです。

 -郭
 そうですね。うちは主人が反対だったんですよ。本名を名乗るのは、商売ができんと。

 -徐
 私は、「大学から本名で生きていいかねえ」って、おばあちゃんに聞いたら、「苦労するだけ」と言われた。けど、大学の四年間だけでも本名で生きてみようかなあって。

 -郭
 自分がちゃんと確立できたら、帰化(日本国籍の取得)してもいい。うちの子も中学や高校生くらいで「帰化しよう」って。でも理由が言えない。じゃけん「今のままでええ」と言うたんよ。「将来あんたが大人になって、自分がええ思うたら、そんときにすればいいよ」って。

 -田中
 日本人への憎しみがないのが、すごい。

 -郭
 私は自分を「幽霊みたい」と思うことがある。日本人でも韓国人でもない。どっちの文化も身に付けてない。戦争の始まりはいじめや差別。人を憎まなければ一番楽。いい人を見本にしたらいい。平和行動は、身近に優しさを広げることだと思う。

 -朴
 優しさにあふれる世界をどうつくっていけるのかなあ。

 -郭
 まず、自分を育てること。精神的にも肉体的にも。

 -朴
 何でそんなにプラス思考なんですか。

 -郭
 自分を守るため、プラス思考のほうが楽だもん。戦前や戦後を生き、辛酸をなめて強うなっとる。

 -朴
 私は高校まで自分が韓国人だと意識したことはなかったんです。来年、韓国に留学したい。どういう扱いをされるんだろう。

 -郭
 大事にしてくれますよ。自分を精いっぱい育てたらいい。どこへ行っても順応できる自分になっとけばいい。

 -朴
 歴史を知らなきゃいけないと思います。

 -郭
 あったことを伝えるべきです。人を憎むことから入ったらいけん。大きくなったら判断ができる。自分で勉強すればいい。その人がしっかりしとれば何人であろうと関係ない。それがないと、世の中、ひらけていかんじゃないですか。「世界びと」になってほしいよ、みんな。



あの日、火の手を避けた観音橋を訪れ、徐さん、田中さん、朴さん(右から順)に当時の様子を語る郭さん(撮影・藤井康正)




●クリック 

 被爆した韓国・朝鮮人

 「広島市原爆被爆者援護行政史」(1996年)によると、広島、長崎で被爆した韓国・朝鮮人に関する詳しい実態調査はなく、正確な数は把握できていない。72年、ソウル市の韓国原爆被害者援護協会(現韓国原爆被害者協会)は広島で5万人、長崎で2万人が被爆し、うち4万人(広島で3万人)が死亡したと推計した。


 



 語り終えて

郭さん
優しい心で語り合って

 三人が私の話をどう受けたか。余計なことを言って、かえって混乱させてしまったのではと心配です。
 在日だからとか、日本人だからとか、そういう「枠」にこだわってほしくない。戦争の歴史は、事実を正確に知り、間違った部分をただしていけばいい。曲がった物の見方はしないで。
 三人は今、同じ日本、広島にいる。この出会いも何かの縁。優しい気持ちで語り合って。



 聞き終えて

徐さん
欠かせない歴史認識

 郭さんが語る犠牲、残された人々の痛みこそが原爆であり、ヒロシマなのだと思った。
 国際理解や平和実現に歴史認識は欠かせない。互いを知り、自分を知ることから始めなければならない。郭さんが涙をこらえて語った体験を、私たちの経験として語り継ぎ、戦争や平和について真摯(しんし)に考えていきたい。


朴さん
自分に何ができるか

 「在日」って何なんだろう…。いつも私自身を悩ませる。答えはまだ見つかっていない。
 対談を通じ、過去に近づき、歴史の重さを受け止める必要を感じた。自分に何ができるのか見つけたい。私自身の問いの答えもつかみたい。そうすれば、郭さんの言葉にある「優しさ」と結び付くかもしれない。
 その傷跡が残る元安川や平和記念公園を一緒に歩いて、少し切なくなった。戦争は二度と起きてはいけない。平和であってほしい。そんなふうに思った。


田中さん
胸を打つ友人思う姿

 身近な人に優しい気持ちで接することは、平和運動と比べたらずっと簡単なように感じる。でも振り返ると、できていない自分がいた。
 人の優しさを教えてもらった。かばってくれた友人を大切に思い、涙を流して訴える姿に胸を打たれた。こんなに感情移入したのは初めて。大切なことを思い出した。



担当記者から

  「以心伝心」重い言葉

 田中さんは泣きじゃくり、朴さんは黙り込み、そして徐さんはひたすら質問を繰り返した。それぞれが自分と重ね合わせ、郭さんの人生と向き合おうとした。
 私たちもみけんにしわを寄せて考えていると、郭さんから何度も「あんまり深刻に受け止めないで」となだめられた。対談後に聞いた「以心伝心」の言葉も印象的だった。憎しみは相手にも伝わると。優しさは「培った処世術」なのだと。郭さんにそう言わせる歳月の重みを思う。(桜井邦彦、門脇正樹


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