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「原爆一号」とともに |
中傷に耐え 貫いた信念
夫の平和運動 妻が支えた
平和運動に打ちこんだ「原爆一号」、故吉川清さんの妻生美さん(83)の自宅(広島市中区)を、
安田女子大大学院一年の大田桃子さん(22)と、比治山大一年の北泰之さん(19)が訪れた。
膨大な原爆関連資料が押し入れの中に詰まっていた。
-北 うわ、すごい。これ全部、ご主人の資料ですか。 ビデオやアルバム、千羽鶴が山積みに。二人は、夫妻の思い出と活動記録が詰まるアルバムをめくった。 -生美 昭和十九(一九四四)年六月に主人と見合いして。後ろ姿ががっちりしてたの。この人なら大丈夫と、一目ぼれしたわけです。 -北 後ろ姿に…。 -生美 九つも年が違うから、周りは反対した。でも押しかけ女房になってね。主人は広島電鉄本社(中区)に勤め、五日の晩から六日の朝まで防空当番で会社にいたの。 清さんは白島西中町(現中区西白島町)にあった自宅に帰り着いた直後の玄関先で、生美さんは庭で、それぞれ背中から熱線を浴びた。可部町(現安佐北区)にあった臨時収容所で約二カ月過ごし、清さんは四六年二月、中区の広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)に入院する。 -生美 (昭和)二十二年四月、アメリカのジャーナリストら約二十人が広島の視察に来られたの。副院長が主人に「ケロイドを見せてやってくれ」って。夫は一度は拒否したけど、「反省させるいいチャンス」と、背中を見せたの。 記者から「アトミック・ボム・ビクティム・ナンバー・ワン・キッカワ」との声が上がったという。「原爆一号」と訳され、日本の新聞にも掲載された。生美さんは、そのころの写真を出した。 -生美 こんなにやけどしてね。私も首から腰まで、両ひじ、両足をやけどしてる。 右袖をまくり、やけどのあとを見せる生美さん。二人がのぞき込む。 -生美 (夫は)以来みんなから「原爆一号」と言われた。ののしりも受けた。 -北 なぜ悪く言われたのでしょう。 -生美 「原爆を売り物にしている」とね。ねたみもあったかもしれない。原爆に遭った人は同じ思いだとは思うんだけど、十人が十人、同じ考えじゃないから。主人は「みんなが分かってくれるまで耐える」と突っ張ってきた。 夫妻が各地の集会に招かれて証言すると、「タダで旅行している」と中傷されることもあった。清さんは一九五一年に退院するまで、皮膚移植など計十六回の手術を受けた。 -生美 病院を出てからは家を探す間もなかったんですよ。原爆慰霊碑(中区)そばのバラックで寝起きをして、毎日仕事を探しに出た。それを見ていた人が「土産屋を開いたらどうか」と。石炭箱二つと戸板を貸してくれたの。 五一年五月、原爆ドームわきに観光客向けの記念品店を開いた。 -生美 初日は二百五十円のもうけ。それでお米やおかずの材料を買って、おなかいっぱい食べた。私にとって、二百五十円は絶対に忘れてはならないお金。そっから始まったんです。 その年の八月、清さんたちは広島初の被爆者組織「原爆傷害者更生会」設立に奔走する。 -大田 ご主人が活動している間、お店は。 -生美 私がやった。店の名前は正々堂々と「原爆一号」。 -大田 へえー。 -北 何を売っておられたんですか。 -生美 絵はがきや原爆の子の像の模型、ドームの置物とかね。一度、女学生がしゃれこうべを洗って売っている店はどこかと聞いてきた。 漫画でそんなシーンを見たらしい。 -生美 そんな店はない。そんなふうに愚弄(ぐろう)したらいけない。同じ苦しみを味わった被爆者に対してそんなことできるはずがない。(漫画とはいえ)許せなかったから作者を怒った。(私の言い分は)間違ってますか。 -大田 そんな思いをみんなに知ってもらうのが大事なんだと思います。 -生美 そうそう。(証言が)下手でも、心の隅に真実がとどまってればいい。私は広島弁で飾らずに原爆の恐ろしさを語る。それに執念を持っているから。 再び店の話に。 -大田 どんな人が買いに来たんですか。 -生美 観光客よ。朝六時から薄暗くなるまで。まだやりたかったけど(平和記念公園一帯を)聖地にするとかで、のいた。 一九六七年、故山田節男市長が公園内での露店や集会、デモなどを禁じる「聖域化構想」を唱えたためだ。 -生美 その後は喫茶店をしようと思ったんだけど、主人は飲みすけじゃけえ、(知人から)飲み屋を勧められて。(私が)四十六歳くらいのときに始め、ママさんになった。お酒なんて、ビールと焼酎しか知らない。私が仕切って、一年でやっと慣れて、十年間やりました。 -大田 店の名は。 -生美 「原始林」。原爆に始まり、林のごとく繁盛するようにと、お父さん(清さん)がつけた。大学の先生やマスコミ、銀行員…。いろんな人が来て、ええ勉強になりました。主人が表で平和運動してたら、心おきなくさせてやるのが妻の務め。ほれたもんが負けよ。何の苦にもならん。 店は繁華街の一角、中区流川地区にあった。閉店は、清さんが脳卒中で倒れたため。十年近くの闘病生活の後、八六年に亡くなった。 -北 いつから証言を始めたんですか。 -生美 主人が亡くなった十カ月後から。知人に勧められた。今も年間にしたら六、七十回。ようしゃべるんよ。 -北 ずっと語っててほしいです。 -大田 今、楽しいですか。 -生美 楽しい。生きがいを感じる。生き残ったのは、この世にしなくてはならない何かが残っているから。それは戦争反対、平和や命の尊さを伝えること。生きてる間、動ける間は頑張りたい。伝えていきたい。よしんば、生徒さんたちの前で倒れて死んでも本望です。間違ってますか。 -北 しんどいと思うことはないんですか。 -生美 不整脈や気管支炎、メニエル病…。いろいろある。でも、空から主人がにらんどるですけんね。ハハハ。 生美さんは、壁に掛けた清さんの遺影を見上げた。 -大田 私の祖父母は被爆者。体験を語るのをいやがる。隠す人が多いとも聞きます。 -生美 (私も)子どもがいたら違ってたよ。軽い身だから言ってきたんだろうな。一人でも(子どもが)いたら、私の意志を継がせられるんだけど。十分や十五分で、とても話せる話じゃないですから。 -大田 私たちに、してほしいことはありますか。 -生美 通った道に間違いはなかったと。そんな人生を歩んでほしい。 -大田 二人ともそんな感じだったんでしょうね。自分が正しいと思ったら貫くというか。 -北 聞けるだけ聞いて、自分らがつなげていきたいって思います。 -生美 お願いします。ほんと。あなた方の肩にかかっていますよ。(世界は米中枢同時)テロ以来変だし、今大きな岐路に立たされている。背中がゾクゾクするんです。一人ひとりが針路を誤らんように、前をしっかり見とかんといけん。 三人は押し入れの資料をみやった。 -生美 子どもがおれば、残しとこうと思うんだけど。いろいろあるから見てください。(原爆)資料館(中区)に、いつ寄贈しようかしらと思って。 -大田 (整理を)手伝いたい。 -北 うん。 |
![]() 「見てください。私が死んだら、捨てられるだけ」。夫の清さんにまつわる資料を、押し入れから引き出す生美さん(右)。説明を聞く大田さん(左)と北さん(撮影・今田豊) ![]() 吉川夫妻が営んだ記念品店「原爆一号の店」
(1952年8月6日) ![]() 広島赤十字病院で、背中のケロイドの診察を受ける清さん(中)(10フィート運動返還フィルムから)
![]() 入院中の清さん(右)と、闘病を支えた生美さん(故河本一郎さん撮影) ![]()
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語り終えて |
吉川さん 真剣な姿勢に感心 貧困や障害に苦しみ、周りから悔しいことも言われた。あのどん底の生活はもういや。でも、苦しみを乗り越えた数だけ、幸せがあった。夫婦の愛があったからだと思う。 話を熱心に聞く二人を見て、今と未来を真剣に考えているなと感心した。優しいけれど、しんは強い大田さん。判断力がある北さんも、いいまなざしをしていた。二人ならきっと、将来の平和づくりに貢献してくれる。若い世代に体験を語る機会が多い私には、それがよく分かるんです。 |
聞き終えて |
大田さん 圧倒される強い生き方 周囲との摩擦に耐えながら、平和への思いを語ってきた吉川さん夫妻の強さとエネルギーに圧倒された。勇気をもらったような気がする。 被爆者をひとまとまりのグループとして見ていた。身を削るように体験を話す吉川さんに触れ、考えが変わった。一人ひとりの被爆体験とじっくり向き合う機会を増やし、思いを次世代に伝えたい。 北さん 伝える使命感生まれた 原爆の惨状を、若い世代に懸命に伝えようとする生美さんの気持ちがひしひしと伝わってきた。生美さんの中で息づく清さんにも、計り知れない「強さ」を感じた。 それらが自分の中に流れ込んで来るようで、やり場のない怒りと切なさが胸を締め付けた。二人の思いを引き継ぎ、語りたい。そうしなければならないという使命感が生まれた。 |
●担当記者から 記録整理 2人にエール 被爆前、生美さんは清さんの背中に一目ぼれした。その背中はやけどを負い、「原爆一号」と呼ばれるゆえんとなった。「死ぬまで伝えたい」という生美さんの言葉から、生きざまも体つきもがっちりした清さんが透けて見えた。 夫妻の資料は膨大で、押し入れにぎっしり収まっている。別の部屋にも山積みしてあるという。整理し、記録に編むのは骨が折れると思う。それでも「宝が詰まってる」と北さん。最後まで頑張って、夫妻の歩んだ道をたどってほしい。(門脇正樹、加納亜弥) |