素顔の12歳

大人になろうと背伸びして…
いとおしさでいっぱいになる
 


 「サダコ」と同じ病室で過ごした大倉記代さん(64)は、
安田女子大三年の河野宏美さん(21)と広島大二年の竹内有紀さん(20)を
平和記念公園(広島市中区)に案内した。
ここには佐々木禎子さんをしのぶ場所が、いくつかある。



 -大倉
 本当によく似てるんです。禎子ちゃんに。

 少女が両手を空に向けて伸ばす「原爆の子の像」だ。サダコの死を機に、一九五八年に完成した。以来、折り鶴を手向ける人波が今に続く。

 -大倉
 禎子ちゃんはあなた方に、どんなふうに入っているの?

 -竹内
 平和学習で聞いたのが初めてかな。懸命に生きた心が強い少女。

 -河野
 小学校の平和学習で。十二歳なのに強い人。私はこんなふうに生きられないだろうって。

 -大倉
 私は一九五四年十二月から肺浸潤という胸の病気で緊急入院して、禎子ちゃんと初めて会ったのは翌年六月でした。

 広島赤十字病院、現在の広島赤十字・原爆病院(中区)だった。サダコは五五年二月に入院していた。

 -大倉
 彼女は最初が大部屋で、私は二人部屋。六月初めに彼女が引っ越してきたんです。彼女が荷物の整理を始めると同時に、丸い光の輪が窓から入ってきて…。

 二人部屋は中庭に面した中二階にあった。サダコは大倉さんとあいさつを交わすと、手鏡を持って部屋を飛び出し、向かいの病室の患者と、太陽の光を反射させる遊びに熱中した。

 -大倉
 私もしばらく、光の応酬を見てたんです。素早いっていうか…。すっかり気持ちがほぐれて。

 サダコは病院中を歩き回り、知り合いを増やした。

 -大倉
 禎子ちゃんは、私と接した六、七、八の三カ月はとても行動的だった。快活な無邪気な女の子で。好奇心いっぱいに動いて。

 キャベツを買って自炊したことがある。

 -大倉
 小ぶりなのを買ってきて、洗面所のガスで、鍋でゆでて。主導権は彼女が持っていてね。かつお節とおしょうゆかけて食べた記憶がありますね。お母さんがしっかりした方で、彼女は生活能力はあった子だと思います。家でも弟や妹の面倒はみていたんだし。ご飯の支度とかもある程度、やっていたんじゃないかなあ。

 夏の終わりごろ、サダコは読書に興味を持った。

 -大倉
 文庫本を読むのが、ちょっと大人になったしるしみたいで。中身は分かってないんですけど背伸びをして。そんな体験ないです? 禎子ちゃんが「うちも読んでみようかな」って、私の本を読む気になって。

 当時、大倉さんの手元に、夏目漱石「こころ」、森鴎外「雁」、谷崎潤一郎「猫と庄造と二人のをんな」の三冊があった。

 -大倉
 禎子ちゃんは本の薄さで「雁」にして。とびとびでも最後まで読んだようです。彼女が青春の門の入り口に立っていたこのときが(今思うと)いとおしいというか…。もうちょっと長生きしてくれていたら、アンネ・フランクのように、自分を見つめる何かを書いて残せたんじゃないかと思う。

 若者二人がうなずく。

 -大倉
 雑誌を読んで文通したいと思って、「私、これ出してみるけど」って言って彼女にも勧めたら、「うん、やる」って。音楽に興味がある人と文通を始めたんです。これも子ども時代を抜け出るころだった気がするんですけどね。

 夜空を一緒に見上げたときもあった。

 -大倉
 私が星が輝きを増すのを見ていて、彼女も付き合うようになって。話すでもなく、ただため息をついて。

 -竹内
 好きな人の話とかは。

 -大倉
 したのかもしれない。ただ特定の名前とかは全然記憶にないですよね。小学校のときに病院に入ったわけだから、男の子たちに関心を持つチャンスがなかったんじゃないかなあ。

 -竹内
 禎子さんは音楽も好きだったんですか。

 -大倉
 八月初めごろ、病院の三階の講堂で「原爆を許すまじ」を聞いて。病室に帰ったころ(彼女は)鼻歌でメロディーを奏でていたんです。それから二日くらいして、家へ泊まりに帰るんですね。

 サダコは八月五日に外泊し、六日に原爆慰霊碑へ行く途中、鼻血を出して病院に帰ってきた。

 -大倉
 帰ってきて「あの歌覚えてきたよ」って言うんですよ。歌詞も含めて私に教えてくれたんです。音感もよかったし、好きだったみたいですね。その後も「原爆を許すまじ」を歌うたび、禎子ちゃんを思い出して。今まで平和や原爆に思いを持ち続けてきたのは、禎子ちゃんのことがあったからだと思うんです。

 -竹内
 禎子さんが亡くなられたのはどうやって知ったんですか。

 -大倉
 新聞記事でした。私は八月に退院しちゃうんです。九月は一度だけ会ったんですけど、十月に療養のため、親せきの家に引っ込んじゃうんです。

 サダコの死を知ったのはその五―六日後。

 -大倉
 何もしてあげられなかったなあと、思いがどっと押し寄せてくるっていうか、それで自分を責めるみたいな気持ちがずっとあって。

 翌年八月五日、大倉さんは折り鶴を携えて佐々木家を訪れ、遺影に手を合わせた。

 -大倉
 彼女は子どもなりに、親がとても大変だというのを分かっていたみたいで。(それに対し私は)自分が未成熟だったことをさらけ出すようで、(彼女のことを話すのは)いやだなという気持ちがあって。積極的に自分からは話さなかったんです。でもそれでは(彼女の素顔は)何も残らないんですよね。

 大倉さんは包装紙を取り出した。サダコとともに病室で鶴を折るとき、患者への見舞いの包装紙を主に使ったという。五五年六、七月ごろ、名古屋の女学校から病院に折り鶴が届き、サダコにも配られた。それが折り始めたきっかけだった。

 -大倉
 看護婦さんに聞くと「あれは原爆症の患者さんに送ってきたから」って。禎子ちゃん本人に原爆症とは伝えていなかったらしいんですよ。だけど、彼女の耳にも入ったかもしれない。鶴はセロハンで、キラキラ輝いてきれいだったんです。それで、「うちらも折ってみようか」って。一本につないでカーテンレールにループ状につるしておいたんです。

 サダコは、包装紙を求めて病室を回った。三十センチの物差しで測り、四等分にして鶴を折った。

 -大倉
 包装紙を箱にためておいて、寝っ転がって折るんです。夜九時に消灯。でも夢中で折って、看護婦さんによくしかられましたね。彼女は器用だから、すぐに千羽折って、もう一度折り始めたんです。

 -竹内
 病気を治そうと願ったのですか。

 -大倉
 そういう会話をした記憶はないんです。

 七月四日、四―五歳の女の子が白血病で亡くなった。二人は院内の霊安室で手を合わせた。

 -大倉
 色の白いお人形さんみたいな子。顔に紫斑が出てて、思わず二人で息をのんで。

 サダコは「うちもああやって死ぬんじゃろうか」とつぶやいた。

 -大倉
 この子は自分の病気のことを知っているんだって。原爆症ってことじゃなくて、同じ白血病として。恐れを抱いたと思うんですね。

 大倉さんは「ばか言いんさんな」とサダコの肩を抱き二人で泣いた。

 -大倉
 骨張っているというか、肉が感じられないくらい。やせてたんです。何年たっても忘れられないですね。

 サダコをテーマにした映画が話題に。

 -大倉
 九百何羽までで、千羽折れないで力尽きて―という悲劇に設定されたんですね。

 -竹内
 映画を見たとき、どう感じました?

 -大倉
 記録として残すには千羽っていう数字が大切かなって思うんですけど。あえて、それは違いますっていうこともないかなと。伝説のサダコは、一生懸命病気の回復を信じて折っていたという悲壮感があるじゃないですか。でもそのときは、生命力っていうのかな。ろうそくの火がよく人間の命にたとえられるでしょう。燃え尽きるときに輝くというか。

 二人は黙って大倉さんを見つめた。

 -大倉
 やはり、そういう部分が語られないと、作られたような感じがするっていうのかな。ひとくくりの物語でなく、短かったけど人間としてこんなに一生懸命生きてたと。私は、それを伝えていきたい。




「紙の色にもこだわったのよ」。原爆資料館で禎子さんの遺品となった折り鶴を見つめ、ともに過ごした3ヵ月を振り返る大倉さん(右)。じっと聞く河野さん(左)と竹内さん(撮影・藤井康正) 


幟町小のグラウンドでリレーの練習に励む6年生の禎子さん(川野登美子さん提供) 

4年生の学年写真で仲良く写る禎子さん(左)と川野登美子さん(川野さん提供) 



「原爆の子の像」建設の経緯

1955・ 2・21 広島市立幟町小6年の佐々木禎子さんが広島赤十字病院に入院
10・25 禎子さんが亜急性骨髄性白血病のため同病院で死去。甲状腺がんを併発していた
11・12 元幟町小6年竹組の同級生たち「団結の会」が平和記念公園にあった市公会堂入り口で、原爆の子の像建立を呼び掛けるビラ配布
56・ 1・18 広島市内の小、中、高校生約100人が像の建設準備会。「広島平和をきずく児童生徒の会」を結成
8・ 6 禎子さんの父繁夫さんと母フジ子さんら一家5人が原爆慰霊碑を訪ね、大倉さんが折った千羽鶴を手向ける
58・ 5・ 5 平和記念公園に「原爆の子の像」が完成し、禎子さんの弟英二君(当時幟町小3年)が除幕。募金には全国3100校、海外9カ国の子どもたちが協力し、580万円(利子を含む)が集まった


 


禎子の兄
佐々木雅弘さん(63)
(福岡県那珂川町)


最期の言葉「おいしい」
 禎子は幼いころ、私が脱ぎ捨てた服を後ろから拾って歩いてくれた。入院した禎子を見舞うと、「うどんを食べよう」と地下食堂に連れて行ってくれたこともあった。弟や妹の面倒もよくみた。きょうだい思いだった。
 体に紫斑が出て関節の痛みを訴える禎子を見ると、つらかった。なのに禎子は決して「痛い」と言わなかった。
 「禎ちゃん、トイレまでおんぶしようか」と母が言っても、手すりをつたわって廊下を歩いた。父母に心配をかけぬよう、はれたのど元を包帯で隠したこともあった。病院から帰る母がエレベーターに乗り、扉が閉まる瞬間に、初めて涙を見せた。
 家は当時、知人の借金の保証人となり、貧乏だった。病院代にと父は腕時計を質屋に出した。禎子は窮状をよく知っていた。お見舞いでもらったお金を注射代に出そうとした。
 美空ひばりの歌が大好きで、ラジオを欲しがっていたのに、わがままは言わなかった。お茶漬けを「おいしい」と。それが最期の言葉だった。
 優しい妹だった。辛抱強かった。ノートと鉛筆、教科書をカバンに入れ、中学に通うことを楽しみにしていた。(談)
幟町小の同級生
川野登美子さん(62)
(広島市中区)


似た境遇 気が合った
 禎ちゃんとは幟町小の二年から六年まで同じクラスだった。被爆者で家が商売していたという似た境遇もあり、気が合った。スポーツ万能で、五十メートル走は七秒台。バック転みたいなこともしていたし、陣取りゲームのタックルの強さは六年竹組で一番。男子から「猿」と呼ばれていた。
 入院時に「三カ月持つかどうか分からない」と聞き、竹組で見舞いを続けようと決めた。禎ちゃんは、会うと中学の話ばかり。通えないと分かっているから、話をそらすのに心を砕いた。それが少し重たくも感じた。中学での生活や友達が大切になり、だんだんと遠ざかっていった。数カ月で亡くなるって知っていたのに…。
 だから竹組で原爆の子の像を造ろうと思った。それがいつの間にか、他校生徒や教員の別の意思が加わり、私たちの思いとずれた。完成を機に、竹組は口をつぐんだ。
 被爆五十年を機に、私は再び口を開いた。生きたくても生きられなかった禎ちゃんを通じて、子どもたちに命の大切さを伝えようと思った。それが同じ境遇でありながら、今も生きている私の務めだと思う。(談)
幟町小6年の担任
野村剛さん(79)
(広島市中区)


将来の夢 体育の先生
 クラスの子どもは毎週日曜日の午後、吉島(中区)の私の家に遊びに来て、近くの海岸でアサリやハマグリを採った。禎子も三、四回ほど来たが、家(理髪店)が忙しいため、普段は妹や弟の面倒をみていたようだ。
 禎子が最後に来たのは昭和二十九(一九五四)年十二月十五日だった。潮が高くて海に行けないので、みんな「手取り鬼」という陣取り合戦のような遊びをしていた。
 その後、家で番茶を飲みながらふかしイモを食べた。遊んでいて禎子にタックルで倒された男の子は「今日の禎子は怖かった」と言っていた。
 運動の好きな子で、走るのも跳び箱も鉄棒も上手だった。卒業文集に「中学校の体育の先生になりたい」と書いていた。  夏休みに可部(安佐北区)のお寺に泊まりに行ったときは、あの子が最初にお経を覚えた。転校生が寂しそうにしていると、禎子が友だちになっていた。病院でも小さい子をかわいがって、優しい子だった。(談)


 語り終えて

大倉さん
本当のサダコ伝えたい

 若いころの私にとって「サダコ」は心のとげだった。三カ月一緒にいながら、彼女が背負う悲壮感を感じ取れずにいただけに、進んで語ることにちゅうちょしていた。でも、思春期の入り口の禎子ちゃんの変化を見ていたのは私一人。それに気づいてからは、いとおしさでいっぱいになった。
 いつでもどこでも禎子ちゃんは私の中にいる。伝説のサダコ像に息吹を与えられるなら、後世に語り継いでもらえるならと、対談に臨んだ。熱心に聞いてくれたことが、ただうれしい。


 聞き終えて

河野さん
原爆被害の大きさ実感

 今まで禎子さんのことを、物語に登場する気丈な人物としてしか見ていなかった。でも実際は、とても人懐こくて、病院中のアイドル、そしてしっかり者という別の一面を知ることができた。
 私の中の禎子さんは、どこにでもいる十二歳の少女へと変わった。原爆が罪のない子どもたちにもたらした被害の大きさを実感し、何かしなければと強く思った。


竹内さん
人間味感じる少女の姿

 禎子さんは普通の女の子だったんだなと、何度も思った。折り鶴に使う包装紙にこだわるエピソードなどを聞いているうちに、なんとなく自分と重なる気がした。
 病院中を駆け回り、患者たちと無邪気に話し、鶴を折る禎子さんに、人間味を感じた。そんな女の子の人生が原爆に奪われてしまったことを、きちんと胸に留めておきたいと思う。




担当記者から

  被爆者の思い伝える難しさ

  不謹慎を承知で言えば、大倉さんがひもとくサダコ像に胸が躍った。死の病に侵され、命果てるまで鶴を折り続けた悲劇のヒロインは、院内を元気に駆け回り、キャベツを湯がいて食べた。難解な本に挑み、星空を見上げた。
 十二歳の素顔を身近に感じるほどに、原爆への怒りは増す。大空に鶴を掲げる原爆の子の像に、今も後障害と闘う被爆者の叫びや祈りを思う。その思いをストレートに伝えるには、大げさは慎むべきなのだろう。体験継承も、新聞報道も。(桜井邦彦、門脇正樹


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