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第一報 |
警報発令終えぬ間に光
必死に電話 惨状伝えた
比治山女子高放送部の佐々木祥子さん(16)と田所珠梨さん(16)は、岡ヨシエさん(74)に連れられ、
旧日本陸軍中国軍管区司令部の作戦室跡へ入った。
広島市中区、広島城の本丸の一角。半地下室は、明かりをつけてもほの暗い。
-岡 ここが情報室。「玄界灘からB29が三機、高度八千、北北東に向かって進行中」だとすると、(司令官がいる作戦司令室の)地図上に敵機の位置が赤ランプでつくの。私は司令室隣の指揮連絡室にいて、小窓のカーテン越しに司令室から出る(警報発令や解除の)紙を見て交換機で伝えていたの。 電話の交換機を操作し、役所などに警報を伝達する役目だった。 -田所 どうして女学生が軍の司令室に。 -岡 比治山は陸軍との関係で、重要な情報を任された。(原爆投下の年の)五月には作戦室への動員が五十人だったけど、テキパキと仕事するもんだから、八月には九十人に。三十人ずつ三班に分かれ、朝八時から夕方五時までの日勤、翌朝までの夜勤、夜勤翌日は二十四時間休みと、三交代で順繰り回したの。 比治山高等女学校(南区)は当時、校舎の一部が陸軍将校の軍服を縫う工場として使われていた。 -岡 私の班は五日は夜勤。四国や神戸で空襲が続いて一睡もできなかった。翌朝七時台に警報を発令したけど何もない。これで終わったと判断し、ほとんどの軍人さんは官舎に帰った。 原爆投下の瞬間に、話が近づく。 -岡 いつもは八時に交代する。けど、なぜか大本営(跡)前での朝礼が長引き、日勤者が来なかった。八時十分ごろ「B29一機、広島に向かって進行中」と情報が入って。手薄の司令室から指示はなく、十三分にやっと紙が出たのよ。 紙には「八・一三 広島、山口 ケ・ハ」とあった。ケは警戒警報、ハは発令の略語だ。ちなみに、クは空襲警報、カは解除だった。 -岡 県庁や市役所、放送局、新聞社に「八時十三分、ケイカイケイホウハ」―。発令と言い終えないうちに光が入り、爆風に飛ばされた。意識が戻ると一人きり。外に出てみると、街は廃虚だった。 -佐々木 建物は何もなかったんですか。 -岡 堀の土手から似島(南区)が見えた。倒れてた軍人さんが「新型爆弾にやられた」って。作戦室に戻り、転がってる電話を拾っては、取っ手をグルグル回した。(壊れて)つながらなくて、三つ目か四つ目に福山の連隊に当たったんよ。 「もしもし、大変です」「なに新型爆弾、師団の中だけか」「いいえ、広島が全滅に近い状態です」―。そんなやりとりだった。ほぼ同時に級友も隣で、別の電話で話していた。これらが、広島壊滅を外部に伝えた「第一報」とされる。 -佐々木 外にいた人は。 -岡 警報を発令してなかったから、ほとんどが亡くなった…。近くの陸軍幼年学校が、けが人収容所になり、無事だった級友が戻ってきた。私を含め七、八人が看護に当たったの。 級友九十人のうち被爆死したのは六十四人という。生き残った生徒は、岡さんのように被爆直後も司令部周辺にとどまったり、いったん避難したりしていた。 -佐々木 家族を心配しなかったんですか。 -岡 そこらの人を助けることしか頭になかった。食堂があった場所からお米を引っ張り出して、木切れと石ころでかまどを作り、ご飯を炊いた。漬物おけに、たくあんが入ってた。兵隊さんの剣でゴリゴリ切った。おにぎりを配ったの。 -田所 私だったら何も考えられない。 -岡 自分でも不思議。家でもご飯を炊いたことはなかったから。ひらめきね。いろんなことが浮かんできた。 -佐々木 私には務まりそうにない。 -岡 子どもでもお国のために役に立つんだって思って。司令部は一般の人が入れない所だから、プライドもあった。 -佐々木 看護はどれくらいまで。 -岡 十七日の解散式まで。十五日に地下壕(ごう)前で玉音放送を聞き、力が抜けた。 岡さんは十三日にいったん帰宅したものの、翌日には司令部に戻っている。 -田所 家族は無事だったんですか。 -岡 野砲兵だった兄は土橋(中区)での建物疎開中に被爆し、東雲町(南区)の家で死んだ。「天皇陛下万歳」って、母にすがるように。純粋で、それだけに哀れだった。 -佐々木 戦後の授業はどこで。 -岡 校舎は壊れてなかったから、九月から再開したのよ。でも私は原爆症にかかって、田舎(広島県北広島町)で療養したの。母が毎日ドクダミをせんじてくれて、三学期には登校できた。 話題は被爆後の人生に。 -岡 二十歳のとき結婚して、二十五歳で長男を生んだ。私が原爆に遭ったせいか分からないけど、貧血がひどくて。お医者さんと縁の切れない子だった。県庁に入って三年して、膠原(こうげん)病にかかったの。入退院の繰り返しで、三十八歳で亡くなった。主人もその五年後に膵臓(すいぞう)がんで…。 -田所 岡さんの夢は何でしたか。 -岡 女医さんになりたかったの。それが戦争で…。 二人は、戦時中の恋愛のことも聞いてみた。 -佐々木 付き合っていた人とかは。 -岡 戦争中だからね。恋らしい恋はしてないけど、ほのかな思いはあった。通学中にあこがれの人とすれ違うと、わざと目を伏せたりして。そういう青春だった。 -田所 フフフ。なんか、いつの時代も同じですね。変わらない。 -岡 司令部にもばりばりの若い参謀がいてね。馬に乗って目の前を通ると、「わあ」って。 -田所 ところで、証言はいつごろからですか。 -岡 ちゃんと話し始めたのは六十歳を過ぎてから。原爆資料館(中区)の被爆証言ビデオにも出てる。まだ若くて、眼鏡もかけてない。 -佐々木 今も十分若々しいですよ。 -岡 でも(自分の)子どもには(被爆体験を)話せなかった。やさしい子だった。中学ぐらいになると、たいてい母親と一緒に歩くのを嫌がるじゃない。買い物に行くときは荷物を持ってくれて、交差点では腕を組んでくれた。私を「姉上」って呼んでたのよ。 -佐々木 息子さんは今お幾つですか。 -岡 生きてたらね…。四十九歳。 うっかり聞いた質問に自分で気づき、うろたえる佐々木さん。かばうように岡さんが話し続けた。 -岡 今は供養ざんまい。朝起きたら仏壇にお茶を二人分供えるの。ご飯ができたら、お茶も入れ替えて。行ってきます。ただいま。一日中、仏壇に話し掛けるわね。 -田所 六十年たって、どんな思いですか。 -岡 原爆が落ちなければ女医になってたかもしれない。爆心地の近くで何日も看病しなければ、体の弱い子を生まなかったかもしれない。でもね、私が生きてるのは朝礼が長引いたからなの。助かるはずの人が死に、死んだはずの私が生きてる。悲しい思いもしたけど、楽しい思いもした。運命だと思う。 -田所 私たちに何を求めますか。 -岡 多くの犠牲の上に今の平和があることを肝に銘じてほしい。この先、あなたたちも結婚して子どもを生むと思う。できたら、今日のことを伝えてほしいわ。 |
![]() 「警戒警報は、ここで止まったの」。薄明かりの指揮連絡室跡で、佐々木さん(中)と田所さん(右)に原爆投下直前の様子を話す岡さん(撮影・荒木肇) ![]() 被爆から約3カ月後の中国軍管区司令部作戦室入り口(米軍返還資料、原爆資料館提供)
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語り終えて |
岡さん 平和の喜び 考えて (こちらばかりの)一方的な語りではなく、後輩たちと過ごした時間は楽しかった。話しきれなかった体験もあるけれど、普段の証言活動では触れることのない、大切な思い出を呼び起こすことができた。 私たちの時代は、いつも「お国のために」だった。今は努力すれば夢がかなえられる。幸せな時代と思う。 あのころを語れる人がいなくなると、多くの犠牲の上にある平和の喜び、ありがたさは忘れ去られるかもしれない。六十年を節目にもう一度、考えてみて。 |
聞き終えて |
佐々木さん 親になったら教えたい 被爆者と対談したのは初めて。原爆の話をリアルに聞くことができて参考になった。何より、岡さんの人間性が分かったのがうれしい。活発だったり、友達思いだったり。近づけた気がする。 岡さん自身を心にとどめておきたい。いつか親になったら、今日の出会いと、私なりに考えた平和を子どもに教えたい。 田所さん 多くの人に見てほしい 「原爆は自分とは無関係だと思っていた。でも、岡さんたち被爆者は歴史上の人物じゃなく、今も記憶ごと生きている。説得力ある話を聞き、同じ経験をしたかのように感じた。 今年、岡さんたちの取材を映像などの番組にまとめる。記憶を形に残し、一人でも多くの人に見てもらいたい。 |
●担当記者から 恋の話で弾んだ会話 被爆体験が中心だった間、高校生たちはうなずくばかりで、かしこまっているように見えた。2人のほおがようやく緩んだのは、日常や初恋の話に転じたときだった。 通学中にすれ違う男子学生や、若い参謀へのあこがれ…。60年前の女学生が抱いた淡い思いに共感したのか、何げないテーマから互いの共通点を見つけ、語り合った。戦中の話は暗いと敬遠する若者もいる。でも、こんな近づき方もあるし、いいなと思う。(門脇正樹、加納亜弥) |