海峡に揺れて

韓国では情報得られず
後障害知ったのは82年
 


 ノートルダム清心高三年の藤井真梨さん(18)と岩本理沙さん(18)は、広島市中区の平和記念公園を訪ねた。
公園内にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑に手を合わせる在韓被爆者の沈載烈さん(78)との対話が始まった。




 -沈
 私は(一九一〇年の)日韓合併後に生まれたんで、(被爆)当時は日本人だった。

 沈さんの語り口に親しみがこもっている。

 -藤井
 日本に来たのはいつですか。

 -沈
 昭和七(一九三二)年。日本語を知らぬまま、中島尋常高等小学校(現中島小)に来た。学歴はそれだけ。

 海峡を渡ったのは六歳のときだった。

 -岩本
 どうして日本に。

 -沈
 父親がわしら家族を呼んだんです。なぜ父親が先に日本に来ていたかは知らない。故郷の陜川(ハプチョン)は「韓国のヒロシマ」といわれるくらい原爆被害者が多い。日本で成功した者のつてを頼って渡日したんでしょうね。「問うても陜川、問わなくても陜川」と言うほど多かった。

 -岩本
 強制ではないのですか。

 -沈
 自分の自由で来て被爆した。だから運が悪かったとあきらめができる。しかし、強制連行された徴用工たちは、どれほど悔しいか。

 -藤井
 言葉は大丈夫だったんですか。

 -沈
 入学したてのころは分からなかった。三つ違いの兄貴は四年生に入ったけど、日本語が分からないから、わしらと同じ一年生に戻った。一緒に卒業しましたよ。

 -岩本
 卒業後は。

 -沈
 貧しかったから進学の道は全然考えなかった。昭和十四(一九三九)年に卒業し、吉島羽衣町(中区)にあった鉄工所に入った。日給は一日五十銭。五十銭って想像できますか。

 -岩本
 できない。

 -沈
 銭湯が一回二銭のころ。

 -藤井
 差別されたりしましたか。

 -沈
 モーターの軸への注油は、始業前に一番新米のがやらされた。でも、わしより後に入ってきたのがおっても、わしにやらせ続けた。不快だった。

 -藤井
 学校では。

 -沈
 兄貴が同じクラス。みんな恐れて手を出さんかった。仲が良い友達もおりましたよ。

 -岩本
 被爆のときも鉄工所ですか。

 -沈
 皆実町(南区)の運送会社に移ってトラックの運転手をしとりました。当日は、車庫でタイヤをけって、パンクしてないか検査をしよったんです。突然、車庫が倒れて真っ暗。運送会社を目当てに爆撃したと思った。外に出て、避難民の多さに驚いた。

 「腕から皮と体液が垂れ、幽霊みたいだった」と沈さんは言う。

 -沈
 会社に憲兵が来て、わしら(自分と同僚)朝鮮人二人を呼び出した。大州町(南区)の食糧営団倉庫に行って、積まれる物を持って来いと。乾パンだった。今度は「鷹野橋(中区)に行って負傷者を陸軍運輸部へ」。宇品(南区)の運輸部に向かう途中、あらゆるものが飛散していた。道路はふさがれ、機械も馬も倒れ…。車が通る分だけ、がれきをどけて走った。

 二人はうなずく。

 -沈
 運んだ被爆者のほとんどが死んどりました。かわいそうでねえ。晩に配車係が「明日もその仕事してくれ」って。橋の上に車を止めて寝た。七日は比治山(南区)から運輸部へ負傷者を運搬した。翌日も頼まれたけど、拒絶して家に帰りました。

 当時、吉島本町(中区)に両親や兄夫婦、弟や妹たち十人家族で住んでいた。けがはあったが全員無事だった。八日は行方不明の親類を捜し、西練兵場(中区)などを訪ね歩いたという。

 -沈
 そして八月十五日、まさかの終戦。ほっとした。今晩から空襲もない、安心して眠れる、と。わしも日本の教育を受けて「軍国少年」になっとった。いつか召集され、日本のために戦って死ぬる覚悟はできておった。けど、一発の爆弾で広島が壊滅した状態を見たときは、もう恐ろしくって。すぐ嫌になった。

 家族はその年の十二月、宇品から船で再び海峡を渡り、郷里にたどりついた。

 -沈
 「朝鮮人は皆殺しにする」とのうわさが広がっとったんです。わしも理髪店で聞いた。帰りたくなかったけど、父母が帰ると言うから仕方ない。その後は、はあ、随分苦労しました。農業やったり、荷積みしたり。生きるために、泥棒以外は何でもした。

 一九五〇年開戦の朝鮮戦争。沈さんは九月に招集され、米陸軍の歩兵師団でライフル撃ちを任された。

 -沈
 ばかみたいに勇敢に戦い、勲章をもらいました。国から毎月、日本での九千円分くらいもらってます。戦後は新兵訓練所の輸送部に。それがまあ、わしの大体の経歴。はっはっはっ。

 -藤井
 朝鮮戦争をどう思いましたか。同じ民族同士の争いじゃないですか。

 -沈
 民族同士だけど、わしは韓国人。国連が参戦し、韓国を援助してくれたでしょ。

 -岩本
 南北が統一されてほしいですか。

 -沈
 いや。東西ドイツが統合したとき、西側がどれだけ経済的な苦労をしてきたかご存じでしょ。

 -藤井< br> 日本で今、憲法九条を変えようとする動きがあります。  沈 変えない方がいい。日本も韓国も戦争をしてはいけない。第二次世界大戦で、どれだけたくさんの人が死んだことか。戦争はいけない。

 -岩本
 二度の戦争で何を得ましたか。

 -沈
 諦念(ていねん)。

 -藤井
 戦場では死体が幾つも…。

 -沈
 「わしもいつかこうなるんじゃろう」と、あきらめとった。

 -藤井
 強く思ったことは。

 -沈
 絶対に戦争はしてはならない。

 戦後の在韓被爆者の境遇が話題に。日韓両政府レベルの合意で渡日治療が始まったのは一九八〇年だ。

 -沈
 八二年、日本から派遣されて来た人に(渡日治療の事前)審査を受けた。原爆を受けてから吐き気がするようになったと伝えたら、「それも一つの後遺症」と言う。そのとき初めて原爆に、後の障害があることを知った。

 在韓被爆者支援はその後、曲折をたどる。沈さんは健康管理手当を日本滞在中しか受け取れないのは不当だと、広島県や日本政府に不服を申し立てた。多くの在韓被爆者たちの提訴を経て、沈さんが韓国にいても手当を受け取れるようになったのは二〇〇三年三月から。

 -沈
 韓国では「原爆で独立が早められた」と喜ばれておるわけよ。わしが被爆者と言うても誰も聞き手はおらんし、原爆の情報も得ることはできなかった。

 しんみりと聞き入る二人。

 -沈
 もし、放射能があることを知っとったら、鷹野橋にも比治山にも西練兵場にも行かんかった。知ってて、そんな所に行かないでしょ。

 -岩本
 韓国では日本のことをどう思っているんですか。

 -沈
 植民地時代があるから反日感情は強い。でもわしは違う。戦争がなければ、ずっと広島で生活したかった。憎しみはない。

 -藤井
 今回も(治療が終われば)韓国に帰るんですか。

 -沈
 ビザ(の期限)が三カ月だから。

 -藤井
 帰って、何をされるんですか。

 -沈
 女房とけんかかな。はっはっはっ。

 -藤井
 苦労話をもっと聞かせてください。

 -沈
 果てしないですよ。

 -藤井
 教えてください。

 -沈
 まあ、やめましょう。順を追って話したらきりがない。

 -藤井
 じゃあ、苦労や貧困の中で生き抜けたのは、何か支えがあったからですか。

 -沈
 そうねえ。それはきっと、明日への希望でしょう。




「あんたらが生まれる前、わしは日本人じゃった」。韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で、沈さん(中)から苦難の60年を聞く藤井さん(右)と岩本さん(撮影・今田豊) 








「資料館の何万倍も悲惨だった」

 韓国高校生にも体験談 沈さん

  沈載烈さんは今回の広島滞在中、韓国の高校生に被爆体験を証言した。耳を傾けたのは、韓国仁川市の仁川博文女子高一、二年生二十八人。
 「原爆資料館(中区)を見てきたでしょう。あんなもんじゃない。その何万倍も悲惨だった」。沈さんは当時の地図を指でたどりながら丁寧に説明した。
 同高二年の趙美愛さん(17)は「遺体が川にあふれていた様子は、今の街並みからは想像できない。一発の爆弾で一瞬にして市街地が壊れることを知った。韓国でも伝えたい」と感想を話した。
 在韓被爆者が韓国内で体験を証言するのは珍しい。「戦争終結を早めた原爆投下は、ありがたがられているから」と沈さん。同高は二〇〇一年から広島市西区のノートルダム清心高と相互訪問して交流している。今回も今月一日から四日間、広島に滞在。原爆被害を知ってもらおうと清心高の教諭が沈さんに依頼した。

【写真説明】沈さん(右)の証言を聞く仁川博文女子高の生徒(国立広島原爆死没者追悼平和祈念館) 


韓国の被爆者 1/4が陜川在住

  在韓被爆者の四人に一人は慶尚南道陜川郡で暮らしている。日本政府の在外被爆者支援事業のうち韓国分を担当する長崎県原爆被爆者対策課によると、大韓赤十字社に登録している被爆者は二〇〇四年一月時点で二千百四十人。うち五百四十二人が陜川に住む。
 陜川には、韓国唯一の原爆被害者福祉会館(定員八十人)がある。日本政府が一九九〇年代に「人道的支援」として拠出した四十億円の基金の一部や韓国政府の助成で九六年に開館した。高齢になった被爆者が入居している。
 多くは広島での被爆者だ。そのため陜川は、「韓国のヒロシマ」と呼ばれる。


【写真説明】山あいにある陜川原爆被害者福祉会館 



 



 語り終えて

沈さん
日本政府は真実伝えて

  時代が違うし、若い人の意識がどうかは分からない。体験を伝えられたとは思うが、理解しづらいと感じたかもしれない。ただ、悲惨な死に方をした人や家族の悲しみを忘れてはならない。その事実を伝えてほしい。
 日本には私たちの支援者がいてくれて、ありがたい。一方、在外被爆者のことを知ってはいても、立場を理解してくれる日本人はごく少数だと感じている。日本政府は日韓の歴史を教えることにためらうことなく、真実をきちんと伝えるべきだと思っている。


 聞き終えて

藤井さん
興味深かった裁判の話

  在外被爆者の生の声を初めて聞いた。多くの在韓被爆者が手当の請求を拒否され、裁判で国と争った話は、法律や政治の道を志す私にとって興味深かった。差別ほど、してはいけないものはない。「戦争をしてはいけない」と繰り返す沈さんの言葉は、世代や民族を超えた共通の願い。苦境に耐え、希望を捨てず生きた沈さんの言葉が、胸にぐっときた。


岩本さん
リアルに光景浮かんだ

 沈さんが被爆した場所近くに、私は今暮らしている。被爆直後に沈さんが回った場所も、私がよく行く所。体験を聞き、光景が妙にリアルに浮かんだ。日本に尽くそうとした沈さんの覚悟を消し去った原爆に、言いようのない恐ろしさを感じる。韓国人だからという理由で戦後も物質的、精神的に苦しんだ。その体験を、しっかりかみしめたい。




担当記者から

  波乱の人生 圧倒された

  被爆と日本の植民地支配の歴史の両面に迫るのは重いテーマだ。沈さんの波乱の人生に私たちも圧倒された。流ちょうな広島弁を聞き、国境、祖国、民族差別とは…と考えた。
 四時間の対話を、私たちは息を詰めて見守った。高校生二人は、沈黙する場面もあったけど、言葉を選びながら、よく頑張って聞き出したと思う。
 私たちが朝鮮半島の歴史を知り、韓国で被爆者の体験が広まる。きれい事に聞こえるかもしれないが、それが相互理解の第一歩だとあらためて実感した。(桜井邦彦、門脇正樹


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