中国新聞
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第三部 韓国編
 9 独りぼっち
 「死」を考える日々 術後20年 また足痛む

 

(写真右)右足の痛みをこらえながら、土産物店を切り盛りする李さん(江原道華川郡)
2002/07/30
 ソウルから北へ、バスで二時間余りの江原道華川郡。一人で土産 物店を営む李順玉さん(70)の目から突然、涙がこぼれ出た。「母が おらないから、両親がおらないから、不幸な生活だけしてから」。 すすり泣きがしばらく止まらない。「原爆の時から不幸続きが、今 の今まで」

 ▼唯一の肉親も自殺

 十四歳で原爆孤児。皆実町(南区)に住み、母と妹と一緒に倒壊 した家の下敷きになり、母は目前で亡くなった。父は仕事を探しに 出て被爆したらしい。遺骨は見つからない。

 妹とともに、叔父一家と帰国した。ソウルに着くと、子守りの奉 公に出された。下敷きになったときに強打した右足が痛む。「死ね ばよかったのに」。布団に入ると、涙が出た。

 十九歳の時、股関節の痛みが増した。医者は「放っておくと不自 由になる」と言ったが、治療費はない。うずき、高熱が続いた。数 年後、股関節は冷たい石のように「く」の字型に固まった。

 二十一歳で結婚したが、子どもができなかった。八カ月で捨てら れた。「もう生きたくない」。睡眠薬を飲んだが、目がさめると病 院にいた。織物工場で働く妹が駆け付け、「私が働いてあげる」と 慰めてくれた。

 その妹にも悲劇が襲う。結婚後、二度妊娠したが流産が続き、離 婚させられた。「幸せそうな人を見ると悲しくたまりません」と遺 書を残し、唯一の肉親はガス自殺でこの世を去った。

 天涯孤独。足の痛みは続く。家政婦の仕事を見つけても、一週間 で熱が出て続かない。再び、自殺を図った。が、またも気付くと病 院にいた。

 入院費の支払いに困っていると、同室の五十歳すぎの男性が払っ てくれた。「一緒に暮らそうか」。行く当ては他になく、ついて行 った。夫は酒を飲んでは声を荒げ、暴力をふるった。出て行こうに も帰る場所はなかった。

 ▼土産物店切り盛り

 十数年後、夫は亡くなった。その後、アパートが再開発で取り壊 され、今度は、住む場所がなくなった。隣の男性が相談に乗ってく れた。古里の江原道に来るように誘われ、応じた。

 身寄りがなく、転々とする人生。「李さんを援助しよう」―。日 本人の有志が支援運動を進めてくれた。広島に治療に招かれた。一 九八一年、日韓両政府の渡日治療で来日し、人工骨の移植手術を受 けた。痛みが取れ、体が楽になった。

 だが、移植から二十年が過ぎ、痛みが再発し始めている。近くの バス停までも休み休みでないと行けない。手術をする気はもうな い。夫とは折り合いが悪く、別居している。年金はなく、働くしか ない。国道沿いに開いた土産物店を切り盛りする。

 最近、日本の支援者に「私のことはもう忘れてください」と手紙 を送った。「昔のことはもう忘れようとしてるんです。苦しいか ら。一日でも早く死ぬことが私の幸福」。涙を浮かべてつぶやい た。




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