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2002/07/08
海は青く、空も青い。イパネマやコパカバーナの海岸沿いを水着 姿が行き交い、リオデジャネイロは冬でも南国風情。日系人会館にやって来た被爆者五人の表情も、明るく元気に見え た。 サンパウロから約四百五十キロ。日本政府が昨年末に示した在外 被爆者支援策について説明し、意見を聞こうと、在ブラジル原爆被 爆者協会が参集を呼びかけたのだった。 「元気そうに見えるから困るのよ。日本からお医者さんが来た時 に、そう都合良く、重い症状にはなれないでしょう?」 片山三那子さん(71)が首をすくめる。その肌つやにファッショ ン。確かに、とても七十歳代には見えない。 リオは一九六〇年までブラジルの首都。日本の大手企業の支社な どもあった。そのまま定住した人、事業を起こして新たに移住した 人が多いという。片山さんも五八年、柔道講師をしていた夫の仕事 について来た。 北九州市に生まれた。父の仕事で転校した竹原市の忠海女学校時 代、対岸の大久野島にあった毒ガス工場で勤労奉仕した。そして終 戦直後の焼け野原の広島市内にも送り込まれ、被爆者の救援活動に 当たった。 「当時はまだ子どもでしょ。本当に衝撃的な光景だったわ」 ▼昨年の通院は19回 いまでも体の調子が悪くなると、あの時の「死体のにおい」を思 い出す。それが、自分の体に備わってしまったバロメーターとい う。 昨年一年間、網膜剥離(はくり)、手足の関節の痛み、しびれ、 心臓の検査などで十九回も通院した。例えば眼科は検査だけで、一 回約三万円もかかった。 二年に一度、日本の医師団が来る。サンパウロだけでなくリオで も、被爆者の健康診断をし、相談に乗る。原爆の話が通じるからう れしいけど、会話に興じるほどに体調がいい時は、あの「におい」 は思い出さない。 しかも法律上、日本の医師団はその場で治療できない。だから、 数人程度が後日、渡日治療に招かれる。しかし、「元気そうな人」 になかなか順番は回らない。「結局私は、こちらで病院に行くばか り」。片山さんは解せない表情をする。「せめて、保険の掛け金分 だけでも手当をもらえたら、みんな助かるのに」 ▼子どもだけが頼り 長年病気知らずだった広瀬泰子さん(87)も最近、初めて一カ月 間、寝こんだ。長女(55)の会社の保険に入っている。「この不況で 会社がつぶれたり、子どもに頼れない状況になったら、被爆者はど うすればいいのかしら」 中区袋町出身。千田町にあった山中女学校で英語教師をしてい た。あの日、国からの視察団を待つため、自分は校内に残っていた が、市中心部へ建物疎開に出かけた教え子たちをたくさん亡くし た。会社員だった夫の転勤で七三年に移住した。 「日本人の誇りを持っているの。だから、日本の国が日本の人と 認めない現状なんて、孫には言えないわ」。在外被爆者を被爆者扱 いしない母国を恥ずかしいと思う。「世界に優しい日本であってほ しいの」 |
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