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2002/07/05
「一銭も稼げんのんよ。生きとってもしょうがない」。ジュキア 市に暮らす松本政子さん(78)は、口癖のように繰り返す。八年前に
くも膜下出血で倒れ、手術した。以来、身体の自由が利かない。夫 の武光さん(83)の助けが欠かせない。
「何をやっても半人前なのに、『生きているだけでいい』と、お むつまで洗ってくれるんよ。早く元気になって主人の役に立ちた い」。武光さんの腕に支えられてテラスに出る。いすに腰掛け、外 の空気を吸う。 サンパウロ市から南西に約百六十キロ。バナナ畑がのどかに広が る人口約一万五千人の町。 お見合いで婚約し、すぐ徴兵された遠い親類の武光さんを七年待 ち、一九四六年に結婚した。たる工場を始めたが行き詰まり、五六 年、ブラジル移民の話に乗った。 二人の子どもを連れ、パラナ州のコーヒー農園で働いた。農業は 初めてだった。慣れない仕事に毎日が苦痛だった。 ▼小売店を切り盛り 十年後、ジュキアに移った。裁縫好きの政子さんは小さな店を構 え、洋服や手芸品の販売を始めた。子どものおもちゃ、自転車部品 と少しずつ品数を増やした。 バザール・ドナ・マサコ(政子おばさんのお店)―。そんな愛称 で、地域のブラジル人に親しまれている。 倒れてからは二男夫婦に任せた。 「こんなに何もできんようになったら死ぬのを待つだけよ」。そ んな愚痴もこぼす。働きに働いた政子さんだから、動けない自分が つらい。 生と死は紙一重だ。 政子さんの古里は広島市東区牛田である。そこから中区大手町一 丁目にあった商社に通勤していた。あの日は、上司に「どうしても 着物が縫いたい」と無理を言い、休暇を取っていた。 青い光とドーンという音。同僚が気にかかり、その日の昼すぎ、 会社に向かった。階段を上がる途中だったのだろう。片足を上げた ままの死体があった。爆心直下。一瞬に奪われた同僚の命。「自分 だけ助かってつらかった。悲しかった」 倒れるまでは「原爆症が出たら、日本に帰ればいい」と思ってい た。でも今、一人で立つことも座ることもできない。「日本どころ かサンパウロだって…」 ▼不安は募るけれど 焼け跡を歩いた経験が不安を募らせる。爆心地から約一キロにい た母は、あの日の夕方から赤い斑点が出て髪の毛が抜け、二週間後 に亡くなった。入市被爆した妹も、五年前に白血病で亡くした。 車の揺れにも耐えられない。サンパウロ市には二年に一度、日本 から被爆者健診団が来るが、もう行けそうにない。親類もいなくな った日本に、帰る理由もない。 弱気になる政子さんに武光さんは「もし逆の立場だったら、政子 はもっと良くしてくれるはず。被爆した身体でブラジルまで黙って 付いて来てくれた。苦労させた」。いつもそばを離れない。 戦争に移民。ともに苦労を重ねた夫の優しさも、痛いほどわか る。「やっぱり生きとらんとねえ」。政子さんはそっと、武光さん のひざに手を添えた。 「やっぱり生きとらんとね」。夫武光さん(右)の支えに政子さん は感謝する(ジュキア市内) |
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