2001.7.16
今も消えぬ心の傷 私、青春って分からないの。取材で一番嫌な言葉は「米田さんの青春は?」と聞かれることなんです。「あんた、なんてむごいことを言うの。そんな言葉を使わないで」と言うんです。私が聞きたいですよ。「青春って何?」って。 被爆したことで差別もされた。あの苦しいのが青春、と言われれば、それまでなんですけど…。外出する時は、頭にふろしきをかぶり、首のケロイドは右手で隠しました。それでも、子どもは残酷なことを言うんです。「お化け」「ハゲ」とか。病院へも、裏道を通ったんですよ。
やけどの跡が盛り上がり)首には大きなケロイドができて、左右に回らないんです。唇もゆがみ、食べ物がこぼれる。髪の毛も抜けている。被爆から四年後に広島市の義兄に引き取られた後も、銭湯に行くと、子どもが近くに来れば、母親が「近くに行ったらいけん。うつる」と言うんです。容姿が気になる年ごろですよ。つらかった。 翌年、通院していた広島赤十字病院の医師の厚意で、無料で手術を受けた。ケロイドは以前より目立たなくなった 私の友人にも同じような苦しみを持っている女性がいました。原爆で顔に無数のガラス片を受け、傷跡が入れ墨のようだったんです。その人が結婚したので、ある日、家に行くと、だんなだけが一人で食事をしていた。「いつもこうじゃけえ」と言うんです。夫は日ごろから「お前の顔を見よると、まずうなる」と言っているらしかった。自分が言われたように、つらくてねえ。 あまり他人に言ってないけど、四十歳で結婚し、十三年ほど広島を離れたんです。引っ越した先で、私の傷を見た人が「あんた、どしたん?」と聞く。私が「原爆でなった」と言うと、「ようもろうてくれる人がおったねえ」と言われたこともある。 六年前に腎臓(じんぞう)を悪くして週三回、人工透析に通う 修学旅行生に被爆体験を話すのもやめました。今、体験をきちんと語れるギリギリの年代でしょうけど…。年上の人たちは記憶が薄れている 原爆被害のうち、見える傷と見えない傷、どっちがつらいと言ったら、見えない傷の方なんです。被爆から何十年たっても、喫茶店に行けば、原爆で焼かれた左半身が人目にさらされない位置に座ってしまう。電車でもそう。瞬間的にそんな場所を選んでしまう。つらい時があまりにも長かったでしょう。心の後遺症なんです。 |