2001.7.17
●「なぜ原爆乙女だけ」 原爆乙女の九人が上京し、無料でケロイドの診療を受けたことがあったんですよ。それを知って悔しくて泣いた。「九人だけが被爆者じゃない。どうして、みんなが治療を受けられないんだろう。私もいるのに…」と。 原爆乙女は被爆の後遺症に苦しむ若い女性の総称。特に、やけどの跡にできたケロイドに悩んだ人は多い。乙女の上京は一九五二年。新聞などで大きく取り上げた
広島赤十字病院に入院中に知り合った吉川清さんに「あんた、悔し涙流したろ。一人でも多くの人にその気持ちをはき出せ。それが被爆者援護法につながる」と言われましてね。この言葉が、息を潜めて生きていた私に強く響いたんです。「一人でも二人でも名前を書いてもらえ」と言われ、被爆者の署名集めを始めた。 近所の人や街行く人に「被爆なさった方でしょうか」と声を掛けるんです。他人にジロジロ見られるつらさが分かっているだけに、被爆者に聞くのはしんからいやだった。「原爆を売り物にしている」と悪く言われたこともあったしねえ。 ●傷をさらし信用得る なかなか話してもらえないから、自分のやけどの傷も見せました。自分をさらさないと、署名してもらえない。「なんで私がこんなことを言われんならんのか」と思ったりもしました。 吉川清さん(八六年、七十四歳で死去)は「原爆一号」と呼ばれ、初期の被爆者運動を背負った。五一年八月、初の被爆者組織、原爆傷害者更生会を結成。翌五二年八月、原爆被害者の会が発足。五六年の日本被団協結成につながった。 みんなの願いだった原爆医療法が五七年に制定されたのも、たくさんの被爆者が声を出した結果だと思うんですよね。「被爆者は一人では何もできない。団結して力を合わせないとダメなんだ」という吉川さんの言葉を実感できました。 五六年にも、吉川さんに「原爆の被害を全国の人に知ってもらわないと、何もできない」と説得され、新潟県長岡市の集会での証言を引き受けた 本当は恥ずかしいし、話したくはなかったんですよ。言ったのは三つの柱だけ。戦争はいけない。核はいけない。平和が一番。質問も多かったんです。私は泣けて泣けて、絶句しました。 ただ、組織が生まれ、盛り上がった一方で、運営をめぐる言い合いやドロドロした争いがあったのも事実です。今も広島県被団協は二つに割れていますよね。 人間ってなんでも、組織が大きくなれば派閥のようになって分裂していく。いつの時代も同じかもしれませんが、平和、核廃絶を願う団体がなぜ分かれなければならないのでしょうか。 |