中国新聞社

2000・4・26

被曝と人間 第4部 源流 1950年代
〔2〕ビキニ被災

急性症を本格治療

  ●「死の灰」と医師苦闘

 粉雪のように吹き付けた白い灰は皮膚をたたき、目や口に入ってきた。放射能を帯びたサンゴの粉だ。「かむとじゃりっとして、砂のようだった」。大石又七さん(66)=東京都大田区=は、そんな感触を覚えている。静岡県焼津市のマグロ漁船第五福竜丸に乗り込み「死の灰」を浴びた。

 ■深刻な造血障害に

 日本の科学者が原子力研究開始をめぐり論議を続けていた一九五四年三月一日、米国が中部太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験の放射性降下物を浴びた「ビキニ被災」である。日本では原水爆禁止運動を生むきっかけとなった事件として知られる。同時に、広島、長崎原爆被災では対応し切れなかった急性障害に、初めて本格的な治療が行われた出来事でもあった。

4月26日
「第五福竜丸展示館」前でビキニ被災を振り返る大石さん。左側は今年1月に展示された第五福竜丸のエンジン(東京都江東区夢の島)

 大石さんら二十三人の乗組員は髪の毛が抜け、体のいたるところが火膨れになった。歯ぐきや内臓からの出血、白血球の大幅な減少といった深刻な造血障害に陥った。

 広島・長崎を経験していた医師たちは、ビキニ環礁で何が起こったかその症状から察しがついていた。原爆被爆調査の医療関係の責任者で、ビキニ被災でも医師団の指導にあたった都築正男東京大名誉教授(故人)は、入院五日後の三月二十日、「急性放射能症」と発表する。

 最先端の医療設備と専門医を結集した治療。しかし、当時、乗組員が入院していた国立東京第一病院(新宿区)の医師で、後に放射線医学総合研究所(千葉市)の所長も務めた熊取敏之氏(78)は「輸血、絶対安静、栄養、抗生物質の注射。この四つが精いっぱいの治療だった」と振り返る。

 ■動物実験繰り返す

 熊取氏は、三月末に入院した久保山愛吉さんの主治医だった。久保山さんの被曝(ばく)線量は、推定で五シーベルト。四シーベルトで「浴びた半数が死亡する」とされる。久保山さんは半年後の五四年九月に死亡した。四十歳だった。

 医師団にとって未体験の連続だった。体内に取り込まれた「死の灰」をどうやって排出させるか、治療の傍ら動物実験を繰り返した。決め手の治療法がなく、検査が多くなった。「骨髄液を抜き取るのは相当痛いんだ。でも、久保山さんは、日本人のためならモルモットになるって言う。われわれは彼に何度励まされたか…」

 熊取氏は、久保山さんの死因を「放射能症」と断定した。ただ死因については、米国から「ウイルスに汚染された輸血による肝炎」との指摘もあったが、被ばくによって引き起こされた可能性を高くみた、という。熊取氏は「米国への対抗心や時勢で、放射能の影響を強く押し出しすぎたかな、とも思う。でも被ばくしなければ、あんなに悪化しなかったはずだ」と振り返る。

 ■乗組員10人が他界

 被災から一年二カ月後に退院した二十二人の乗組員のうち、十人が他界している。肝臓を患った人も多い。大石さん自身、数年前に肝炎と診断され、その後、肝臓がんも患った。

 ビキニ被災から四十五年後の東海村臨界事故では、核燃料加工会社ジェー・シー・オー(JCO)の社員に被ばく患者に対しては世界で初めて造血機能を回復させるための末しょう血幹細胞移植が実施された。ビキニ被災時に確立されていない医療技術であった。


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