2000・1・11
荷重い「原子力の街」
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JCOが示した補償基準の見直しを、斉藤鉄夫科学技術総
括政務次官(右)に要望する村上村長(1999年12月15日、
科技庁政務次官室)
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発展と安全 議論を
「オーストラリアの小学校から、茨城県東海村役場に小包が届い
た。開けると、千羽づるが入っていた。「広島と同じ目で見られた
のか」。村上達也村長(56)はショックだった。千羽づるを折り続け
て亡くなった広島の被爆少女の記憶がオーバーラップした。ジェー
・シー・オー(JCO)の臨界事故から間もない、昨年十月初旬の
ことである。
村上村長は一九九七年九月に就任した。原子力との共存路線を推
進してきた前村長に口説かれ、地方銀行支店長からの転身だった。
降って沸いたような臨界事故を体験し、安全性をおろそかにして
きた原子力行政を公然と批判し始めた。「原子力は恐ろしい、とい
う意識が村民に芽生えた。日本の原子力の発展を担おう、という看
板はこの小さな村には荷が重い」
看板から文字外す
事故の一カ月後、文字通り「看板」を下ろした。職員に指示し、
幹線道路沿い四カ所にある「ようこそ 原子力の街 東海村へ」の
看板から「原子力の街」の五文字を抜き取ったのだ。
臨界事故が起きた昨年九月三十日とその後…。国、県の支援が十
分得られない中、村上村長は孤独な決断を強いられてきた。日本の
原子力災害史上初の避難勧告も独自の判断だった。
< JCOから避難要請を正式に受けたのは、事故発生から約三時間
半の午後二時八分。茨城県庁に問い合わせると、「屋内退避で十
分」。だが、放射線測定値は下がる気配を見せない。午後三時、三
百五十メートル圏内の住民への勧告に踏み切る。
「もっと区域を広げるべきだった」との声も後に専門家から出
た。「あれでよかった、と思うが、いまだに自信はない」と漏ら
す。
調査報告にも苦言
現在も、損害賠償交渉や風評被害の打ち消しに追われる。十二月
十一日に補償の基準が示された時、「現場からの距離や期間を限る
のは不誠実」と、JCO本社(東京)や科学技術庁に出向き、見直
しを求めた。
原子力安全委員会の事故調査委が昨年暮れまとめた最終報告書に
も、「安全規制の提言に具体性がない」と苦言を呈する。「時間を
かけて国民的な議論にすべきだ。一企業、一村だけの問題ではない
のだから」
国に次々と注文を突き付けた村長。村民は好感を持って受け止め
る。しかし、原子力との共存派が多数を占める村議会の川崎孝志議
長(65)は苦々しげだ。「村長発言に行き過ぎた点はある。もし議員
との溝が深くなったら、来年秋の村長選に影響する」とけん制す
る。
全国原子力発電所所在市町村協議会副会長である新潟県柏崎市の
西川正純市長(56)は、村上村長の「奮闘」を冷静に見ている。「同
じ原発を抱える仲間を悪く言えないが、私は歯を食いしばってでも
『原子力は重荷』と言いたくない」
言えぬ「出ていけ」
東海村もまた、原子力立地によって発展したことは否めない。
「原子力施設に簡単に出て行けと言えない。自分たちが出て行くこ
とも無理」と村上村長。現実には、原子力の危険性を踏まえて安全
性を保障する行政が必要、と考える。今回、「平和利用」が核兵器
と同じように人命をさえ奪うことを突き付けられたからだ。
原子力に対するスタンスは「強いて言えば、推進派。東海村の首
長ならば必然的にそうなる」。事故後もその思いに変化はない。
「最近、人間は原子力を制御できるかどうか考えるようになっ
た」とも村長は言う。「われわれは平和利用を核の問題として論理
的に追究することを避け、目先の実利だけを追ってきた。核兵器廃
絶を訴えてきた広島も、いや日本全体がそうだったんじゃないか
」。事故を経た「原子力の村」からの問い掛けである。
(第1部お
わり)
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