原爆講談で悲劇伝え200回 広島県倉橋町で7日上演
'00/8/2
「それが原爆だとも知らずに亡くなった人たちの霊に報いたい 」。呉市清水二丁目の出前講釈師、緩急車雲助(本名久保浩之)さ ん(68)は、そんな思いを胸にこの夏も、公民館や学校などで原爆講 談を続けている。七日には、広島県安芸郡倉橋町の寺で、講談を始 めた六年前から数え、ちょうど二百回目の「石に影を灼(や)きつ けた男」(「石影」)を上演する。
原爆講談は、一編の短編小説との出会いがきっかけで生まれた。 広島大名誉教授で作家の中井正文さん(87)が書いた「名前のない 男」。旧国鉄職員時代に労働組合の弁士として鳴らし、退職後は原 爆の語り部として生きる決意をしていた雲助さんにとって、心動か される内容だった。
約一年間かけて脚本を仕上げ、一九九四年五月に第一回目を上 演。その後「ヒロシマの河は黒かった」「黒い弁当箱」を加えて三 部作とし、全国各地で講談を続けてきた。
「名前のない男」は、原爆の熱線で変色した石段に自らの影を残 した実話に基づく。空襲で妻子を亡くした一人の男が、妻との思い 出の場所に向かう道すがら、石段で被爆。焼け野原が原爆のしわざ とも知らず、霊魂になって戦後の広島を見つめていく。講談の「石 影」では、前口上で核廃絶を訴え、軍歌や民謡なども交えながら、 緩急をつけた独特の語りを繰り広げる。
講談が終わり、雲助さんが演壇から離れても、座ったまま立ち上 がらないお年寄りが少なくない。「一目で被爆者だと分かる」と雲 助さん。「目の前で死んでいく人を助けられなかった体験を思い出 し、やるせなさが去来するのでしょう」
子や孫を傷つけまいと体験を語らない人も多い。「だからこそ、 私のような被爆体験のない人間が平和を語らなければ」。雲助さん は、原爆三部作を八万人に聴いてもらう目標を立てている。詩人峠 三吉が「瞬時に街頭の三万は消え 圧(お)しつぶされた暗闇の底で 五万の悲鳴は絶え」と詠ん だ、あの「八万人」に報いるためだ。
これまでに三部作を聴いた人は、小学生から老人ホームのお年寄 りまで二万人余り。「百歳までかかっても続けるつもり」。雲助さ んは、さらりと語る。
【写真説明】原爆の悲惨さを訴え続ける緩急車雲助さん(31日夜、広島市南区の青崎公民館)