昭和39年4月11日、元米副大統領リチャード・ニクソン氏が広島を訪れた時は同氏の“失意の時代”であった。
27年、米共和党がアイゼンハワー大統領候補を指名、その片腕の副大統領候補にニクソン氏が39歳という若さで抜擢されて当選以来、このコンビが35年まで続く。同年、ジョン・ケネディ氏と大統領選を争って破れ、2年後、カリフォルニア州知事選にも敗退して同氏の政治生命は終わりを告げたといわれていた。広島訪問も、ある米系飲料水会社のトップとしての視察・宣伝のためで、特に政治的意味があったわけではない。アイク時代、世界55カ国を歴訪して“タカ派”のアメリカをセールスしてきた過去の栄光を考えれば、当時の日本旅行は“気楽な旅”だったのであろう。
だが、副大統領時代、「ニクソン氏と核」「ニクソン氏とヒロシマ」は決して無縁ではなかった。副大統領に就任が決まった27年、米ソ両大国の核独占が崩れ、イギリスが初めて核実験をする。そしてその年10月31日、アメリカが太平洋エニウェトク環礁で初の水爆装置実験をし、翌28年にはソ連が後を追う。核兵器の巨大化と不毛の核レースはようやく果てしなき泥沼へ入り込んでいった。29年3月1日、第五福竜丸がビキニで水爆の“死の灰”をかぶり、9月に無線長の久保山愛吉さんが“第3”の犠牲者となった。
原水爆実験に対する日本全国からの抗議の声に31年5月、アイゼンハワー大統領は、原水爆禁止広島県協議会の米大統領への実験禁止要望書に対する返書のかたちで「米国政府は計画された原水爆実験は、自身の防衛と自由世界確立のため絶対に必要だと信じている」と日本国民に回答、さらに10月には特別報告の中で「信頼できる国際管理機構ができるまでは水爆実験はやめない」と強調して日本国民の期待を裏切り続けた。アイクの一貫した核優位政策の陰に信頼厚いニクソン氏がいたのは言うまでもない。
広島に着いた日、ニクソン氏は愛きょうをふりまきながら語った。
「私にとってヒロシマは今まで単に都市の名前にしかすぎなかったが、こんど市民に接して生きた思い出となる。ヒロシマは一つの時代を終わらせ、平和への約束を持たせている町だ」。39年の大統領選挙への質問には「ヒロシマにまで来て政治の問題は語りたくない。ただし、広島の名誉市長の役をやって欲しいというのなら引き受けてもよいが…」と軽口を交じえて記者たちをけむに巻いた。このあと原爆慰霊碑に花輪をささげ、2分間黙とうする。すでに広島の町は暗く、原爆資料館を見学するスケジュールは最初からなかった。
ニクソン氏が米大統領選で奇跡の政界カムバックをするのは広島訪問から4年半後。44年1月に大統領に就任した同氏はベトナム戦争で限定北爆を再開し、カンボジアに戦域を拡大する。ベトナムからの名誉ある撤退をはかるため、かつてアイクが朝鮮戦争で使ったように「あの言葉(原爆を使用するぞ-のこと)が敵側に伝わるようにして」停戦交渉にこぎつける。その後、米中、米ソ首脳会談を経て輝ける再選をなし遂げたもののウォーターゲート事件によって49年8月辞任。その8カ月後、サイゴンは陥落する。