残虐に怒り隠さず

キューバに革命政権が誕生した昭和34年、エルネスト・チェ・ゲバラ団長ら6人の親善使節団がアラブ連合、インド、日本、インドネシア、ユーゴなど11カ国歴訪の旅に出た。“第三世界”の国々にキューバ革命の真実を伝えるとともに、親善友好を促進しようというねらいであったが、日本訪問は、それ以外に特産の砂糖の輸出を増やし、その資金で農業・軽工業機械や漁船、武器の購入に充てたいという経済使節の役目も兼ねていた。

▽日程やりくり訪問

7月15日、日本に着いた一行は、池田勇人通産相ら政府要人と会談して西下する。名古屋の自動車、航空機工場の視察などをスケジュール通りにこなしていたゲバラ団長は、24日「大阪から広島までは飛行機で1時間足らず」であると聞く。

「他の日程をすべて犠牲にしてもヒロシマの原爆慰霊碑に花束をささげたい」

ゲバラ団長の強い要望で翌25日に予定された神戸のドック視察と繊維業者との懇談は取り消され、ゲバラ団長、フェルナンデス大尉、アルソガライ駐日キューバ大使の3人が夜を徹して広島へ着いた。突然の連絡を受けた広島県庁は花束を時間通り間に合わせるのがやっとであったという。

米帝国主義と戦っているキューバ、その中でカストロ首相に次ぐポストにあるゲバラ氏にとって、アメリカの手による“ヒロシマの惨劇”を自らの目で確かめ、無数の非戦闘員を含む犠牲者の霊をキューバ革命政府の名で弔いたかったのであろう。

▽不動の姿勢で敬礼

案内役兼通訳の広島県庁外事係長、見口健蔵氏とまず原爆慰霊碑へ。花束を供えたあと碑の前に直立不動で立った31歳のゲバラ少佐とフェルナンデス大尉は軍隊式の挙手の礼をささげた。続いて原爆資料館で、被爆直後の数々の遺品や写真の前へ。食い入るように見つめていたゲバラ氏が突如として見口氏に英語で話しかける。

「アメリカはひどいことをした。君たち日本人はこんなに残虐な目に遭わされて腹が立たないのか」

これまで終始無口で通していたゲバラ氏の激しい気迫に見口氏は圧倒された。原爆病院を訪れ、住友銀行前で“死の影”に接した3人は翌朝の列車で再び大阪へ帰り、27日、日本を離れる。

▽強く刻まれた印象

革命後日が浅く、政権の基盤がまだ十分に整わない“カリブ海の点の国”の使節団に対する日本の扱いは冷たかったが、ゲバラ氏がヒロシマで受けた印象は強烈であった。帰国後、工業相、国立銀行総裁などを歴任したゲバラ氏が日本を語る場合、ヒロシマが必ずといっていいほど口をついて出た。

41年秋、ゲバラ氏は「ラテン・アメリカの解放と革命のために」カストロ首相と別れてボリビアへ行く。翌42年、キューバの首都ハバナで開かれた3大陸人民連帯会議へ、ボリビアのジャングルから送られてきたゲバラ氏のメッセージは「ヒロシマ・ナガサキに原爆が落とされ…」で始まっていた。“戦死”(42年10月9日)の半年前であった。

(1975年7月31日夕刊)