中野 末太郎(37)(左)
広島郵便局勤務▼爆心直下となった細工町28番地(中区大手町1丁目)の広島郵便局に勤めていた。自宅は材木町7番地。鳥取県東伯郡の実家から兄菊藏が捜しに入るが、遺骨は不明▼一家3人が全滅。おい辰美は「叔父一家が原爆で死んだのは父から聞いてはいましたが、ゆかりの場所が平和記念公園になっていたのは初めて知りました」。
妻 ハナ(40)(中)
遺骨は不明。
二女 奈良枝(16)(右)
遺骨は不明。
八城 ノブコ(31)
自宅で爆死したとみられる▼一家4人が全滅。下宿して広島第一陸軍病院(中区基町)に出勤していた蒲原ミサヲは「郷里が同じ安芸郡音戸町でした。あの朝は、長女を除いて親子3人が家にいたと思います」。
長女 つねこ(7)
本川小1年▼爆死。
二女 みちこ(5)
爆死。
三女 ひとみ(1)
爆死。(注・いずれも遺影なし)
三宅 得一(58)(左)
製針合名会社「青木滝次郎商店」勤務▼自宅は材木町11番地。妻子がいた古田町から吉島本町の工場へ向かう途中に爆心1・4キロの住吉橋で被爆し、古田町の病院で13日死去▼世羅郡小国村(世羅西町)に学童疎開していた小学6年の長男敦雄は「父は全身やけどを負いながらも、乗っていた自転車をつえ代わりに体を支えて工場に着き、同僚に『家が心配だから』と戻ったそうです。今も住吉橋を通ると、もう少し早く工場に着いていれば、との思いがします」。
三女 恵美子(14)(右)
安田高女1年▼遺骨は不明。材木町南側の建物疎開作業に動員されていた。
小松 道蔵(49)(右)
履物製造・卸▼材木町14番地の自宅にいたとみられる。遺骨は不明▼妻子との8人が全滅。6月に召集となり、茨城県水戸市の海軍航空隊にいた二男茂は「父は、子だくさんで市から表彰されたのを誇りにしており、『死ぬる時はみんな一緒じゃ』と疎開を嫌いました。復員後、徴用船乗務の兄が樺太沖で戦死したとの公報を受け、8人きょうだいは自分だけになりました」。
妻 スヱ(44)(左)
遺骨は不明。
二女 澄枝(19)(右)
陸軍被服支廠勤務▼現在の南区出汐2丁目にあった被服支廠に女子てい身隊として勤め、遺骨は不明。
三女 和子(16)(左)
中国塗料勤務▼女子てい身隊に徴用となり、遺骨は不明。
三男 孝行(14)
広島鉄道局(現・JR西日本)勤務▼遺骨は不明。(注・遺影なし)
四女 佐喜子(12)
安芸高女1年▼爆心900メートルの小網町一帯の建物疎開作業に動員され、遺骨は不明。
四男 亮登(あきと)(9)
中島小4年▼遺骨は不明。(注・遺影なし)
五女 睦江(8)
中島小2年▼遺骨は不明。
西尾 幸次郎(42)
八百屋「中幸」▼自宅で爆死したとみられ、遺骨は不明▼母とめいの一家3人が全滅。西隣の4番地に住んでいた安芸高女4年のめい賤機静子は「私が動員先に向かう時、ちょうど叔父も玄関から出て空を仰いでいました。母やきょうだいを捜すのが精いっぱいで、叔父家族の遺骨は確認できませんでした」。
母 ハル(66)
遺骨は不明。舟入町にあった公設市場へ向かい、舟入小の救護所に収容される。孫静子は「救護所で家族を捜していた私の同級生に『静子にここにいると伝えてください』と言い残したそうです」。
めい 大野 愛子(25)
天神町(平和記念公園内)の公設市場勤務▼遺骨は不明。両親は米サンフランシスコで骨とう貿易を営み、幼いころから祖母ハルと暮らしていた。
大野 壽子(かずこ)(43)
淨円圓寺の役僧だった亡夫が自坊としていた町内の「大善寺」で爆死。遺骨は不明▼姉夫婦との2世帯3人。豊田郡船木村(本郷町)から8日に入った妹山下君惠は「姉がふだん着ていたかすりのもんぺの切れ端がありました」。
義兄 山下 利男(50)
県警察部警務課勤務▼空襲に備え、水主町の県庁から移っていた爆心1キロの市役所地下室でガラス片が首に突き刺さり、6日死去。叔母君惠と一緒に入った長女幸惠は「父の遺骨を渡してくださった同僚の方から最期を聞きました。抱いた木箱が揺れると、父の骨がせつなく音をたてました」。
佐々木 房吉(76)
「終戦」の詔書が出た15日付での入営が決まっていた長男秀夫が、訪ねていた安佐郡狩小川村(安佐北区)から6日、材木町57番地の自宅に戻り捜すが、遺骨は不明▼長男夫婦との3人。戦後に長男と結婚した妻は「亡き夫は入営のあいさつのため、たまたま前日から泊まりがけでお母さんの里の狩小川村を夫婦で訪ねたそうです。二人は相生橋で夜を明かし、義父を捜したそうです」。(注・遺影なし)
友高 豊(26)
富国徴兵保険(現・富国生命)広島支社勤務▼遺骨は不明。材木町57番地の自宅から、爆心330メートルの支社があった広島富国館(中区袋町)へ出勤途中だったとみられる▼妻子を安佐郡緑井村(安佐南区)の親類宅へ疎開させ一人。生後11カ月で母に背負われて入った長男由雄は「父は戦地で足を負傷したため引きずるように歩いていたそうです。3年前に死んだ母は、原爆の日が近づくたびに『お父さんが家に戻るとバタン、バタンと靴の音がするので、すぐ分かった』と思い出しては話していました」。
村木 利博(44)(右)
判子製造▼遺骨は不明。材木町57番地の自宅にいたとみられる▼妻子
や父との7人のうち5人と、帰省中の二男の計6人が爆死。爆心1・1キロ、倒壊した中島小講堂の下敷きとなった5年の三女久子は「一瞬で家族6人が消えてしまいました。最期をみておらず、いつかは生きて戻って来る…。50回忌まではそんなことばかり思い続けました。8月6日の元安川での灯ろう流しは今も欠かしません」。
妻 ツ子(ね)(47)(左)
遺骨は不明。
二男 良平(18)(右)
自宅跡で遺骨を確認。勤めていた呉海軍工廠から5日、休暇で帰宅し、「明日はゆっくりできる」と言っていたという。
二女 和子(16)
広島陸軍病院勤務▼基町にあった爆心1キロの病院に出勤し、遺骨は不明。
三男 正義(14)(左)
西部第二部隊勤務▼妹久子は「戦後間もなく、私が身を寄せていた世羅郡東大田村(世羅町)の伯母宅に、軍から木箱に納められた遺骨が届きました」。
父 繁利(77)
製本所勤務▼遺骨は不明。
宮本 敏一(40)(右)
宮本履物店▼材木町57番地の自宅にいたとみられる。遺骨は不明▼長女と長男との3人が全滅。母やきょうだいの5人で島根県邑智郡日和村(石見町)に縁故疎開していた、小学1年の三男馨は「父は兵役でいた横浜市から5日に帰宅し、母あてに『明日行く』と日和村の郵便局に電話で言づけたそうです。姉、兄を連れて疎開する予定でした」。
長女 悦子(15)(左)
進徳高女4年▼父と自宅にいたらしく、遺骨は不明。
長男 輝夫(12)
市立第一工業学校(戦後に廃校)1年▼遺骨は不明。
山口 五郎(67)
うどん店▼材木町55番地の自宅で爆死したとみられ、遺骨は不明▼妻と五男の3人が全滅。さらに訪ねて来た二女家族の3人と四女が死去。(注・遺影はなし)
妻 トモ(63)
爆死。(注・遺影はなし)
五男 鉄男(21)
井上商工勤務▼62番地の井上商工事務所で被爆し、被災状況を知らせるため7日、経営者がいた岡山県小田郡笠岡町(笠岡市)へたどり着き、同町で13日死去。(注・遺影はなし)
二女 福井 久代(26)(左)
遺骨は不明。疎開先から夫と子どもの一家3人で訪ねていた。
夫 仁衛(40)(右)
洋服店勤務▼遺骨は不明。
長男 一夫(1)
遺骨は不明。(注・遺影なし)
四女 亀谷 勝子(25)
遺骨は不明。結婚していた尾道市から戻っていた。(注・遺影なし)
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《記事の読み方》死没者の氏名(年齢) 職業▼遺族がみる、または確認した被爆状況▼原爆が投下された1945年8月6日の居住家族(応召や疎開中は除く)や同居者と、その被爆状況=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、公刊資料に基づく。年数は西暦(1900年代の下2けた)。(敬称略)
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今津 春子(33)
材木町66番地の自宅から国民義勇隊として南隣の木挽町・中島新町(中区中島町)一帯の建物疎開作業に出て、遺骨は不明▼子どもや姉との4人のうち3人が爆死。爆心3・6キロの大洲町の中国配電(現・中国電力)製作所に動員されていた市立第一工業学校2年の長男孝雄は「兵隊さんたちが山のように積んだ死体を焼く何とも言えないにおいと、足元から熱気が立ち上がる7日、自宅を目指しましたが、たどり着くことさえかないませんでした」。
二男 健二(5)
遺骨は不明。母に連れられ、建物疎開の作業現場にいたとみられる。
姉 藤井 久子(37)
遺骨は不明。建物疎開作業に出たらしい。長男が海軍航空隊に入ったため、小学生の長女を芦品郡藤尾村(新市町)の亡き夫の実家に疎開させ、妹宅の離れに同居していた。
山本 梅三郎(45)
椅子(いす)製造▼材木町103番地の自宅で爆死。前夜は己斐町の実家に泊まっていた妻ハナヨが遺骨を確認▼妻子との3人。戦後生まれの孫真也は「祖母は桃を受け取りに帰っていたそうです。原爆の日が近づくと、夫と長男の遺影を置く仏壇にいつも桃を供え、じっと手を合わせていました」。ハナヨの実家には、町内の10人ばかりが6日夜から7日夜にかけて泊まる。
長男 正勝(9)
中島小4年▼自宅跡で遺骨を確認。
矢川 秀市(67)
仕出し「魚秀」▼自宅から爆心1・8キロの饒津神社(東区)近くの料亭を訪ねる途中に被爆し、10月4日死去▼長女と2人。母の妹が長女として養女に入った井原尊司は「店は、日米開戦前までは婚礼などの宴会が2階座敷であり、私が市商業学校に通っていたころは帰りによく手伝っていました。79歳になる今もタイやブリを3枚おろしができるのは、秀市さんの手ほどきです」。(注・遺影なし)
長女 フミ子(38)
自宅跡で座ったままの格好で死んでいるのを兄が確認。
加藤 アサ(59)
材木町94番地の自宅で爆死したとみられる。大竹警察署にいた二男広三が救援隊長として佐伯郡大竹町(大竹市)から7日市内に向かうが、遺骨は不明▼小学2年だった孫の明久は「祖父母は安佐郡伴村(安佐南区)に疎開していました。祖父が1月に病死した後、祖母は住み慣れた所がよいと戻っていたそうです」。
沖本 シゲコ(33)
自宅で爆死。爆心2キロの広島駅構内で被爆した夫庸夫が7日、自宅ふろ場跡で遺骨を確認▼夫と長女の3人。長女は「私が話せるのは、お寺が多く、子どもの遊び場には格好の、人情味あふれる下町だったということだけです」。
山縣 貞一(51)
山縣刃物商▼南隣の木挽町1番地の自宅が強制疎開となり、転居した材木町95番地で爆死。妻と二女が8日、庭跡で遺骨を確認▼妻子との5人。爆心1・6キロの広島貯金支局に動員され被爆した広島女子商業学校2年の二女ノブは「私が家を出る時、父は2階の火棚で育てていた鉢植えに水をやっていました。首から上だけが地面に出ていた父のなきがらを見てひざが震え、母がのど仏の骨を納める際には思わず目を背けてしまいました」。
二男 俊彦(16)
市立第一工業学校4年▼安佐郡祇園町の油谷重工業に動員されていたが、6日は爆心900メートルの県庁北側の建物疎開作業となり、遺骨は不明。(注・遺影なし)
竹田 キクヨ(47)(右)
「竹清」米穀店▼材木町97番地の自宅跡で、長女秋子の夫西原久視が10日ごろ遺骨を確認▼子どもとの7人が全滅。長女の夫は「持参したおけがいっぱいになるほどの遺骨があり、7人とも家とその近くで死んだと思います」。
長男 清(30)(左)
庚午町(西区)で弟が営む製材工場に出掛けようとしていた。自宅前でベルトのバックルが見つかる。妹秋子は「兄は蔵を改装してそろばん塾を開き、町内の子どもから県商、女子商の生徒さん、銀行員まで教えていました」。
二女 朝子(24)(左)
家事手伝い▼爆死。婚約者が7月に召集され、戦死していた。
四女 惠美子(21)
保険会社勤務▼爆死。
五女 文子(19)(右)
中国配電勤務▼爆死。
六女 美枝子(17)(中)
爆死。県立第一高女(現・皆実高)を卒業したばかりだった。
七女 美知子(14)
県立第一高女2年▼爆死。2年生は南観音町の広島印刷などに動員されていた。
中島 豊一(36)
久保井材木店勤務▼遺骨は不明。間借りしていた97番地の竹田宅で爆死したらしい▼妻と娘2人、義母の4人は、天神町141番地(中区中島町)の自宅が建物疎開になり、安芸郡江田島村(江田島町)の豊一の実家に移っていた。83歳になる妻延代は「4歳だった長女の手を引きながら焼け跡を捜しましたが、骨さえ見つからず、実家に持って帰っていた愛用の背広を夫に見立てて葬式を出しました」。
小川 千代子(39)
強制疎開となった中島新町14番地の自宅から7月中ごろに移った
材木町の廣本理髪店の南隣で爆死。夫一二らが遺骨を確認▼3人。賀茂郡東高屋村(東広島市)の親類宅へ4日に父と荷物を運んだ山陽中1年の長男智道は「母はトラックが出発するだんになって『線香を買っておいで』と私を引き留めようとしました。当時は珍しいトラックに乗るのを心待ちにしていたあまり腹が立ち、買って来た線香と釣り銭を母に投げつけました。母がどんな思いをしたのか…と考えると胸が張り裂けます」。
廣本 正太郎(56)
理髪店▼材木町98番地の転居先で爆死。隣町の中島新町19番地の自宅が建物疎開となり、5月に移っていた▼長男の妻と孫との3人が全滅。長男の妻の父らが安佐郡祇園町長束から捜しに入り、全員の遺骨を確認。
長男の妻 敏枝(27)(右)
爆死。二女和子と泊まりがけで訪ねていた実家から6日早朝に戻っていた。祇園町で暮らしていた長女正恵は「父が南太平洋ニューブリテン島で44年2月に戦死していた公報が届き、母は法事を営むため、お米と野菜を持って帰って行ったそうです」。
孫 和子(2)
母とともに爆死。
竹谷 花子(46)
材木町97番地の自宅で爆死。亡夫の弟が見覚えのある着物の柄から遺骨を確認▼三女と孫の3人が全滅。二女森本信子は「電信隊の軍人だった夫の転勤で佐賀県にいた私たち家族を母は7月に訪ねて帰り、広島の様子や私の長女の様子を伝える手紙を送って来ました」。保存する7月29日付の手紙には「家も昨日疎開が決定しました」とある。
三女 対尾(つしお)淑子(21)
実家で爆死。職業軍人の夫といた台湾で病を患い、3月に帰郷していた。
孫 森本 純子(2)
自宅前の防火水槽そばで遺骨が見つかる。信子は「3月に長男を出産した私を気遣って、母が『手が掛かるだろう』と広島に連れて戻りました」。
福原 良四郎(59)
銭湯「菊の湯」▼材木町99番地の自宅で被爆し、南側の万代橋で倒れていたのを賀茂郡吉川村(東広島市)の疎開先から捜しに入った妻フジノらが8日に見つけ、連れ帰る途中に死去▼娘との4人。うち3人と疎開先から戻った孫2人の計5人が死去。横川駅に向かう市内電車で被爆した三女清子は「8日朝に着いた吉川村で、叔母から父が運ばれて来ると聞いて、来た道を引き返しました。揺れる荷車の上で父は『しんどいから降ろしてくれ』と…。最期の言葉でした」。
長女 タミエ(22)
遺骨は不明。妹の清子は「朝6時から夜12時まで開け、入浴料は大人が4銭、子ども2銭。母が疎開した後は、姉が父と交代で番台を務めていました」。
二女 幹枝(20)
看護婦▼基町にあった広島第一陸軍病院で爆死したとみられる。遺骨は不明。
孫 陽子(2)
応召中の父良明に会うため、賀茂郡原村(東広島市)の疎開先から母里子に連れられて戻り、遺骨は不明。父は「原爆の1週間前、浜田の部隊から出張で倉敷に向かう途中に家に立ち寄り、長女と二女を抱いたのが最後の別れとなりました」。
孫 和子(11カ月)
爆心1・5キロの上柳町11番地(中区上幟町)の母の実家で下敷きとなり遺骨は不明。(注・いずれも遺影なし)
秋本 キミ(49)
材木町100番地の1の自宅で被爆し、運ばれた古田町古江方面(西区)の知人宅で15日死去。遺骨は不明▼一人暮らし。46年に旧満州(中国東北部)から復員した二男英雄は「父が病死した後に材木町に移り、44年末の召集まで、階下が『菊の湯』の燃料置き場だった2階ふた間で母と一緒に暮らしました。大勢の人とだびに付されたらしく、身に付けていた財布だけが残っていました」。(注・遺影なし)
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