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《記事の読み方》死没者の氏名(年齢) 職業▼遺族がみる、または確認した被爆状況▼原爆が投下された1945年8月6日の居住家族(応召や疎開中は除く)と、その被爆状況=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、公刊資料に基づく。年数は西暦(1900年代の下2けた)。(敬称略)
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高橋 粂太郎(59)(右)
旅館「共栄館」▼疎開していた佐伯郡井口村(西区)から元柳町16番地の自宅に妻と戻り、遺骨は不明▼妻子との3人のうち2人が爆死。爆心2キロの広島工専(現・広島大)で被爆した3年の二男知之は「旅館は原爆の前年に閉めていました。自宅の下敷きになった母から『お父さんの名前を呼んだが、返事はなかった』と聞きました。父は好きだった川釣りに出ていたと思います」。
妻 サト(55)(左)
ふろ場を掃除中に下敷きとなり、自力でたどり着いた井口村で13日死去。
山瀬 優(57)
山瀬歯科▼三男と開業していた元柳町24番地の医院で下敷きとなり、本川河原の防空ごうで夜を明かす。翌7日、大八車で捜しに来た親類が安芸郡船越町(安芸区)に運ぶが、10日死去▼妻や三男夫婦、四男との5人のうち4人が死去。広島工業学校(現・県工業高)の校舎を徴用していた呉海軍工廠造船実験部に動員されていた、広島工専2年の四男明は「原爆の瞬間、父と兄は2階の診察室でその日の準備をしていたそうです。兄は船越町まで歩いて父に付き添うほどでした。しかし、体中に紫の斑点(はんてん)が広がった父の後を追うように死にました」。
妻 ミツノ(55)
自宅にいたとみられるが、遺骨は不明。
三男 武(29)
歯科医▼船越町の妻の実家で13日死去。
三男の妻 笑音(えみね)(23)
台所跡で遺骨が見つかる。
金光 朗子(あきこ)(19)
昭和町(中区)の自宅が7月に建物疎開となり、元柳町26番地の成田歯科医院=写真=に父喜一郎たちと転居し、爆死。神戸市に出張していた保険会社勤務の父が戻り、遺骨を確認▼父と弟との3人。成田歯科の家族は翠町(南区)に住み通っていた。岡山県和気郡熊山村(赤磐郡瀬戸町)の親類宅で暮らしていた姉発美恵は「妹は胸を患っていました。父や学徒動員で三菱の造船所に出ていた弟を送り出した後はいつも休んでおり、そのままの格好で白骨になっていたそうです」。
山中 徳義(36)
汪屋(たまや)山中洋服店▼自宅は元柳町27番地。警備召集で就いていた広島陸軍偕行社(中区八丁堀)から爆心1・5キロの西天満町(西区)の東洋製罐へ向かう途中だったらしい。遺骨は不明▼妻子との3人暮らしで、妻子は安佐郡小河内村の実家を泊まりがけで訪ねていた。弟茂樹は「私は前年に結婚するまで兄家族と同居し、住み込み店員4人と背広の仕立てをしていました。京都から生地を取り寄せ、集金に宮島や宇品を回ったりと、店は戦況が険しくなるまでは繁盛していました」。
市川 佐與吉(59)
市川内科小児科▼勤務先の中国地方総監府(中区東千田町1丁目)で被爆した三女耐子が7日、元柳町28番地の自宅兼医院跡に入るが、遺骨は不明▼家族4人とお手伝いの計5人のうち3人が爆死。三女は「父は、空襲警報のサイレンが鳴ると上田商店の前にテントを張った救護所に向かっていました。前夜から続いていた警報が解除となり、私が朝7時40分ごろに家を出た時は父の姿は見当たりませんでした。本川の土手で助けを求めていたと人づてに聞きました。多分、川に流されたのだと思います」。
妻 豊子(50)
中庭跡で8日、遺骨が見つかる。
大西 八重(59)
お手伝い▼遺骨は不明。娘家族が住む佐伯郡大柿町を泊まりがけで訪ね、5日晩に住み込んでいた医院に戻っていた▼小学3年だった孫美寿子は「母が洋裁の仕事で忙しく、よく祖母のもとで過ごしました。本川で水遊びして服をぬらすと、祖母は自分の腰巻きを私に着せてくれました。8月6日には本川で手を合わせています」▼八重と医院で一時暮らし、寮に移っていた進徳高女2年の孫トシヱ(14)は、爆心1・4キロの校庭で建物疎開作業へ出る準備中に被爆し、大柿町の実家で23日死去。
杉本 九一(45)
日本通運広島支社勤務▼借りていた市川内科小児科の別棟で、叔父らが上着の切れ端などを見つけるが、遺骨は不明▼山口県玖珂郡南河内村(岩国市)に縁故疎開していた小学4年の五男省三は「がれきの下に父が出勤に使っていた自転車の残がいがあったそうです。おそらく家にいたと思います。幼いころ母を亡くしてからは、父と兄の3人で暮らしていましたが、私の疎開に続き兄は召集で朝鮮半島へ行き、家族離ればなれになっていました」。(注・遺影なし)
宮本 ミユキ(35)
宮友運送店▼元柳町29番地の自宅で被爆し、目の前の本川に係留していた木船に逃げる。広島沖に釣りに出ていた5軒南隣に住む橋本一雄が船で7日入って見つけ、ミユキの祖母がいた己斐町に運ぶが、9日死去▼母と2人暮らし。いとこの光本恵美子は「ミユキさんの夫の三一さんは召集でいた大阪の工兵部隊から公用の腕章を借りて戻り、最期をみとりました。ミユキさんはふろ場で洗濯中に下敷きとなり、一緒にいたお母さんが見つからず、船で一晩明かしたそうです」。
母 ハツノ(59)
遺骨は不明。めいに当たる美恵子は「炊事場跡には数体の遺骨があり、どれが伯母か判別できなかったと聞きました」。
福原 信子(23)
県地方木材株式会社勤務▼遺骨は不明。宮友運送店2階に6月から弟と下宿し、職場は猿楽町15番地の県産業奨励館(原爆ドーム)2階にあった▼気象技術官養成所(現・気象大学校)の実習生として、爆心3・6キロの広島地方気象台に出て被爆した弟賢治は「姉も東京で働いていましたが、私が郷里の広島で実習することになり、幼いころ家族で住んでいた元柳町に下宿を求めました」。
西口 春男(35)
西口理髪院▼元柳町38番地の自宅兼店にいたとみられる。遺骨は不明▼妻キヌヨは2人目の出産を控え、長男を連れて7月初めに夫の郷里である佐伯郡三高村(沖美町)に疎開していた。87歳になるキヌヨは「夫は徴用されていた安芸郡海田市町(海田町)の鉄工所で左手にけがをし、6日は工場近くの医院で抜糸するはずでした。18日に長女が生まれた戦後は三高村で、夫から見よう見まねで覚えた腕により出張理髪を始め、48年に免許を取りました。71歳で引退するまで理容師の道を歩みました」。
白川 ノブエ(36)
元柳町31番地の自宅で被爆し、本川左岸にいたところを勤務先の呉海軍工廠から戻った夫清らが見つけ、運んだ郷里の比婆郡庄原町の病院で20日死去▼一家5人のうち4人と、訪ねていたいとこの二男の5人が死去。おい昌玄は「私の母と8日ごろに入ると、叔母は本川の雁木(がんぎ)に腰をぐったりと落とし、『祐(ひろし)、祐』と、家の下敷きになって死んだ息子の名前を繰り返し呼んでいました」。
長女 慶子(17)
本川小勤務▼爆心410メートルの本川小に給仕係として勤め、職員室跡で遺骨が見つかる。(注・遺影なし)
二女 立子(14)
本川小高等科1年▼動員されていた爆心900メートルの小網町一帯の建物疎開作業現場跡で、名前が刻まれたアルミ製の弁当箱とともに遺骨が見つかる。(注・遺影なし)
長男 祐(12)
修道中1年▼自宅で爆死。1年生は前日まで市役所南側の建物疎開作業に動員されていたが、当日は休養日だった。(注・遺影なし)
いとこの二男 橋木 啓二(17)
広島工専1年▼己斐町の下宿先からノブエ宅に泊まりがけで訪ねて爆死。比婆郡小奴可村(東城町)に住む父賢五郎らが遺骨を確認。46年に中国から復員した兄清は「ノブエさんが言い残したところでは、下宿に帰る弟と玄関で立ち話をしていた最中に下敷きとなったそうです。弟は昼間は働きながら中学は夜間に通い、その年に工専に入学したばかりでした」。
堀毛 良一(推定40代)
紋屋▼本川左岸の自宅で被爆し、自力で養母が疎開していた安佐郡祇園町の親類宅にたどり着くが、12日死去▼妻と2人が死去。東隣の材木町26番地に父と姉がいた、いとこの奥田文枝は「夫とその日昼すぎに入ると、良一さんは土手にあった防空ごうにいた。額は横一文字に裂け、『寒い』と繰り返していました。相撲取りに負けないくらいの体をしていたので運ぶことができず、持参したむすびと浴衣を置いて、父や姉を捜しに向かいました」。
妻 政子(30代)
遺骨は不明。自宅にいたとみられる。(注・遺影なし)
宍戸 秀子(38)
フレンチ・アメリカン洋裁学校勤務▼元柳町43番地の自宅で下敷きとなり、陸軍船舶司令部隊が運んだ神崎小(中区)で12日死去▼子どもとの4人のうち3人が死去。海軍軍医だった夫が41年死去し、京都府東舞鶴市(舞鶴市)から実家があった材木町西隣の元柳町に戻っていた。爆心約2・5キロの桐原容器工業所(中区舟入南4丁目)で被爆した山陽中3年の二男昌秀は「4日後に救護所となっていた神崎小でやっと母を見つけました。治療も受けられない中、『苦しい』と言い衰弱していく母の手を取り、うちわ代わりに厚紙をあおぐくらいしかすべはありませんでした」▼実家の材木町27番地の田中紙器印刷所では母田中ユキ(53)、弟勢太郎(26)、叔父香苗(52)、東隣では妹松崎宮子(28)が爆死。
長男 俊秀(17)
山陽中5年▼弟昌秀が遺骨を確認。弟は「兄は呉海軍工廠に動員されていましたが、胸を患って自宅で静養していました。母の話では、原爆の瞬間は2階で横になっていたそうです」。
長女 巴(6)(右)
中島小1年▼材木町の誓願寺にあった分散教室に向かい、遺骨は不明。
兼本 ウメ(46)
元柳町44番地の自宅跡で、徴用先の三菱重工業広島機械製作所で被爆した夫金次郎が9日ごろ遺骨を確認▼夫と子どもとの4人のうち3人が死去。金次郎と再婚したイツヱは「徴用前は、今の平和記念公園レストハウス西隣にあった呉服の大津屋さんに勤め、お針子のウメさんと知り合ったそうです。夫が22年前に逝った後は、代わって供養を続けております」。
長男 節雄(16)
広島一中4年▼遺骨は不明。学校史によると、4年生は旭兵器製作所地御前工場(廿日市市)に動員とあり、原爆死は6人。イツヱは「夫から生前に聞いた話では、『家を壊しに行くのは嫌なんじゃが…』と雑魚場町の建物疎開作業に出たそうです」。
長女 惠美子(11)
小学6年▼自宅跡で遺骨を確認。(注・遺影なし)
梶川 定男(29)
タクシー運転手▼十日市町(中区)にあった事務所で被爆し、安佐郡方面に向かう救援のトラックで運ばれた伴村(安佐南区)の実家で28日死去▼妻イワ子と長男との3人で市川医院に間借りし、被爆時は斜め前の元米穀店に転居していた。2人目の子どもの出産を控えて安芸郡奥海田村(海田町)の実家に疎開し、6日は伴村を訪ねていたイワ子は「夫は、私たちが無事なのを見て『生きていてくれてよかった』と言いました。それが、お盆をすぎて歯ぐきからの出血や脱毛が止まらなくなり、9月に生まれた長女を抱くことなく死にました。その後、元柳町に住んでいた妻を失った定男の兄と家庭を持ちました」。
平 清子(33)
元柳町48番地の自宅で爆死。勤務先の三菱重工業広島機械製作所で被爆した夫文雄が7日、遺骨を確認▼夫と子どもの5人のうち4人が死去。中島小5年で双三郡吉舎町の療養所に学童疎開していた克子は「父は10日ごろ迎えに来て、広島の様子を皆に知らせました。私には母と弟が死んだのはなかなか言わず、聞いたのは療養所の寝間に就いてからでした。自宅跡に戻ると防火水槽に、焼けて腹が膨れた馬がはまり込んでいました」。
長男 正明(10)
中島小3年▼炊事場跡で、弟二人とともに遺骨が見つかる。
二男 賢二(7)
爆死。
三男 晃暢(6)
爆死。
福田 長次郎(45)
広島郵便局郵便課勤務▼元柳町31番地の自宅から爆心直下となった細工町28番地(中区大手町1丁目)の局に出勤し、遺骨は不明▼妻子との4人が爆死。芦品郡有磨村(福山市)の叔父宅に疎開していた、小学4年の二男幸作は「戦後は子どものいない叔父夫婦の世話になりました。戦災孤児とみられるのが嫌で、中学校を卒業すると鉄工所に勤め、今は東大阪市で義兄と空調機器の製造会社を営んでいます。とにかく前へ前への一心で生きてきました」。(注・遺影なし)
妻 ツルヨ(37)
遺骨は不明。自宅にいたとみられる。
長男 治行(12)
遺骨は不明。動員作業に就いていたらしい。
三男 稔(4)
遺骨は不明。(注・遺影なし)
梶川 正子(31)
森永食糧工業広島支店勤務▼元柳町48番地の自宅から爆心900メートルの堀川町にあった広島売店に出勤し、遺骨は不明▼正子と義理の姉妹になり、47年にマレー半島から復員した正子の夫順三と結婚したイワ子は「正子さんは三篠本町(西区)の実家に子どもたちを預け働いていました。幼いころは私を『お姉さん』と呼んでいた娘2人を嫁に出すまでは、正子さんの分まできちんと育てなくてはとの気持ちでした」と、孫12人とひ孫5人を持つようになる再出発を振り返った。
長男 義則(7)
三篠小2年▼三篠本町3丁目の母の実家から登校した校庭で被爆し、疎開先の三滝町(西区)で10日死去。
天野 一子(21)
県衛生課勤務▼遺骨は不明。元柳町の下宿先から爆心900メートルの県庁に出ていたとみられる▼小学5年だった妹一代は「位はいには、姉は忠海高女と岡山県高女専門部、広島県保健婦養成所を卒業し、県衛生課に勤めたとあります。亡き父から聞いた話では、退職して三原市の実家に戻るつもりで、荷物を移していたそうです」。『広島県庁原爆被災誌』(76年刊)の県職員原爆犠牲者名簿には記載漏れになっている。
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