中国新聞社

(10)夜の語り同病女性の手を握り涙

2001/7/8

 もう、病棟は就寝時間に入ろうとしていた。そんな時、廊下を歩いていて呼び止められた相手は、私の主治医だった。困った表情を浮かべて、「どうしたら、いいかのー」。ボールペンのノックをカチカチ鳴らして、落ち着きがない。

 聞くと、私と同じ卵巣がんの六十歳代の患者さんのことだった。治療方針の話を切り出したら、わっと泣き出した。今も泣き続けているという。

 夜勤帯で看護婦さんは三人体制になっている。そして、ナースコールが遠くで鳴り続け、追い立てられるように走りまわっている。

 「患者さんに頼んじゃいけんと思うんじゃが、どうにかならんかー」。本当に「まいった」という感じで、主治医はいすに腰を下ろした。同病の私が慰めれば、泣きやんで気持ちも落ち着くのではないか。しかも、私は危機に強そうだと踏んでの大抜てき? なのだろう。戸惑いながらも、「自分も同じだったかもしれない」と思い、引き受けることにした。

 その患者さんの部屋に、主治医と一緒に入った。部屋持ちの看護婦さんもあとから来た。号泣である。「こんなに泣かすなんて、許せんわ」と思いながら、主治医をみると、患者さんの指を一本握り、「話を聞いてもろうてくれのー」と、照れくさそうに言った。

 そばに座って、私は手を握り、しばらく泣き声を聞いていた。新人看護婦さんは圧倒されたのか、黙って立ったままだ。

 その患者さんは、大きな体を震わせて、「おとうさんに会いたいよー」と、何度も繰り返した。しばらくして、泣きながら語り出した。

 夫と二人暮らしで、犬が二匹いること。やっと年金がもらえる年齢になって、ゆっくり第二の人生を楽しもうという矢先の病気だったこと。がんかもしれないということで、家を整理して入院したこと、手術したが、化学療法をして再び手術するとは思っていなかったこと…。

 人生を精いっぱい生きてきた一人の女性の語りを聞いて、私は思わず涙が出そうになった。目の前にいる女性は「卵巣がんの患者」ではなく、「病を体験し、悲しみに耐えかねている一人の人間」なのだ。猛烈にいとおしくなって、彼女の手を握りしめた。  部屋に入ってから、三時間が過ぎようとしていた。

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