私の父は第二次世界大戦の時に兵隊として、千島列島で旧ソ連の捕虜になりました。抑留され、2年間の強制労働をして日本に帰ることができました。妹と私は戦争中の苦労話を毎晩のように聞いて育ったのです。
北イタリアの小学校で被爆アオギリ2世を植樹する子どもたち(2006年4月)
北海道下川町生まれ。武蔵野美術短大卒業後、イタリアに留学した。1981年イタリア人と結婚し在住26年。2児の母。一般の通訳・翻訳と多文化平和教育に努めている。ウディネ県在住。
私が小学校1年生になった時、両親は1冊の本をプレゼントしてくれました。それは「世界の少年少女」という本で、日本は、「さだ子さんの願い」でした。佐々木禎子さんの物語だったのです。ようやく字が読めるようになった私でしたが原爆が命を奪う悲しみを知りました。
その後、社会人になって、イタリアに留学したのがきっかけで2年半後に結婚しました。2番目の子供が生まれて間もない1990年ころ、東京の友人から絵本「ヒロシマのピカ」が送られてきました。イタリアでの暮らしが10年になるから、翻訳して平和のために役立てて、というのです。ヴェローナ市の教師で小さな出版社もしている友人に話し、この絵本のイタリア語版が実現できました。この絵本は世界各国で翻訳されイタリア語は13番目でした。
ウディネ市郊外にあるカトリック教会で出版記念会をしたところ、そこは難民や移民を助けるボランティア団体「バルドゥチ支援センター」の母体で、それを機会に私はその支援センターの協力会員になりました。私は、協力して戦争と核兵器の恐ろしさを伝えていくために、被爆者の沼田鈴子さんや長崎の被爆者を数回お招きして、イタリア各地で原爆の実相を証言してもらいました。
さらに、被爆アオギリが人々に勇気を与えている事に感動したバルドゥチ支援センターの人々は、2本の被爆アオギリの苗を広島市の植物公園から頂いて庭に植林しました。また友人たちが種をまいて、今も北イタリアだけで10本以上の2世を育てています。
そのうちの1本は、2003年イラク戦争に反対した平和グループ仲間のお母さんの発案で、その人の子どもが通スベロニア国境沿いの町の小学校に寄贈されました。
現在、被爆アオギリ3世もすくすく育っています。05に二世の花が立派な実を付けたからです。特別に学校間平和ネット教育活動をしている農業高校が責任をもって育てています。
被爆アオギリは62年前の原爆の悲劇が繰り返されないよう、平和の心を育てる使命を持っています。戦争をしない社会を創(つく)る決心をした人たちに「この木に集まぁれ!」と呼んでいるようです。私もそこに集まった一人です。それは、苦しみを乗り越えた被爆者と心を一つにする庭です。
私にとって平和の心のふるさとは、日本の広島と長崎なのです。