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ヒロシマの絵 里帰り
心は豊か あのころと再会

爆心地からわずか350メートル西にある本川小(広島市中区)の子どもたちが60年以上前に米国の教会に贈った絵や書48点が今年の夏「里帰り」します。作品は終戦後、物がなくて困っていた子どもたちに教会から文房具や運動具がプレゼントされたお礼に贈りました。8月1〜9日に本川小の平和資料館で展示されます。

広島市内や周辺に住む作品の制作者3人に、当時の暮らしぶりと、自分の作品について取材しました。

ガラスは割れ、窓枠が曲がった教室で、机やいすが足りなかったので、いすの間に板を渡して座っていました。缶けりやドッジボールで遊び、夏には本川で泳いだそうです。物がない時代でしたが、生きるのに一生懸命で心豊かだった、と言います。

※ 作品はクリックで拡大します ※


■「生きる」に一生懸命■

「ゴム跳び」島谷節子さん
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島谷節子さん(68)=廿日市市廿日市2丁目=は、子どものころの思い出に「悲しいことはなかった」と振り返ります。それは「みんなが何事にも一生懸命だったから」だそうです。

しかし、広島の原爆で13歳で亡くなった姉の死はとてもつらいものでした。広島女学院中1年だった姉は建物疎開の作業中に広島市中区の鷹野橋で被爆し、8月22日に亡くなりました。当時3歳だった島谷さんは、顔にひどいやけどを負った姉にヤギの乳を飲まそうとして顔にこぼしてしまい、どうすればいいかわからず泣いてしまいました。

卒業アルバム片手に、本川小時代を振り返る島谷さん=右(撮影・高2高田翔太郎)

当時の食事は漬物や芋が中心で、同市東区福田に住む祖父が米や野菜を持ってきてくれました。塩をかけたキュウリが一番好きだったそうです。

また、米国の親せきから小麦粉がよく送られてきました。島谷さんのお母さんが作ったパンプキンパイやケーキは近所から人が食べにくるほどおいしく、島谷さんも大好きでした。

島谷さんが描いたゴム跳びの絵は1年生の時のものです。米国から贈られたクレヨンを使いました。スカートやワンピースを着て靴を履いた姿が描かれています。しかし当時の服装はもんぺにげたかはだしでした。「子ども心に、戦争がなかった時の幸せな光景を描いたんだと思う」と言います。実物を見るのを楽しみにしています。(中2・坂本真子)




■理想の風景描いた■

「桜の下で」石田俊海さん
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「絵についての記憶が全くないんです」と石田俊海さん(69)=広島市中区榎町=は明かしてくれました。絵に添えられていた説明には8歳の時に描いたとなっています。絵では野原の中に桜が咲いています。しかし当時、辺りは、がれきだらけでした。「理想の風景を描いたのではないか」と言います。

「原爆なんて悲惨なもん、二度とあってはならない」と話す石田さん(撮影・中3小坂しおり)

原爆が落ちた時、4歳だった石田さんは母や弟と江田島に疎開していました。きのこ雲が見えました。榎町にいた祖父母は亡くなりました。10日後の夜、石田さんが榎町に戻ってきた時、真っ暗な中、青い火が燃えていたのを今も覚えているそうです。

小さいころ米国に対して特別な感情はありませんでした。「幼すぎて恐ろしい原爆と米国とのつながりが理解できなかった。家族でも学校でもそんな話はタブーとされていた」からです。今は基本的に米国は好きですが、原爆に関しては怒りを感じます。「米国がしたことは本当に非道で許せない」と話します。

六十数年も保存されていた作品との再会に、「どういう気持ちになるんだろうか」と期待しています。作品を見た人には、家族など身近なことから「平和」について考えてほしい、と願っています。(中3・小坂しおり、中2・寺西紗綾)




■安心して花見したい■

「桜の國日本」
末政敏子さん
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末政敏子さん(71)=広島市安芸区=は小学3年生だった1947年、疎開先の竹原市北部から、父の実家があった広島市南区の大河小に転校。翌年の4月、母の実家近くに引っ越し、本川小へ転入しました。

「張りつめた気持ちが薄れたから当時のことを話せる」とほほ笑む末政さん

本川小の近くには、原爆の傷跡が多く残っていました。川で泳いでいたら足に人骨がひっかかったり、夜に蛍だと思ってつかんだものが人骨が自然発火したものだったりしました。驚きましたが、恐ろしいとか気持ち悪いなどの感情はありませんでした。

「今をどうやって生きるか」。その気持ちを常に持っていたそうです。父は戦死し、母と妹2人の4人で生活していました。食料も十分になく、父がいないと経済的に不安定です。もし母が倒れたら妹たちを養っていけない、家族がばらばらになってしまうという不安がいつもありました。

「桜の國日本」は5年生の時に書きました。書が残っていたのを知った時「びっくりしたと同時に60年たって見つかって不思議な気持ちになった」と話していました。

現代の社会は経済的には豊かです。しかし、人殺しなどの犯罪があふれています。「『桜の國日本』の言葉のように安心して花見ができる国、心の豊かな国になってほしい」と末政さんは願います。(中2・木村友美)



「貨物船と伝馬船」
浅沼信二さん(12)

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「遠足 桜」
堀田(現難波)
   順子さん(8)
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「着物を着た女の子」
中島(現田辺Pauline)
   博子さん(12)
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「広場の遊び風景」
伊藤(現佐々木)
   善子さん(8)
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「川・中州・船桜」
藤井(現日吉)
   祥江さん(10)
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「運動会」
田中のぶこさん(9)

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「運動会 鈴割り」
藤井(現久保田)
   紀萌美さん(8)
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「鯉のぼりとお友達」
八木昭寿さん(8)

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「ブランコ・滑り台に
遊ぶ子供たち」
田中みえこさん(9)
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「金魚鉢」
中川ちほこさん(12)

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「自動車」
西村宣紘さん(11)

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「橋と川」
下村(現田辺)
   操子さん(10)
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作品の写真はオール・ソウルズ・ユニテリアン教会提供。作品の制作者名と年齢は実行委調べ


■1日から展示会 48点を紹介

8月1日から9日に広島市中区本川町の本川小平和資料館で開かれる「ヒロシマの校庭から届いた絵」広島展示会。48点の絵と書が、米国から海を渡ってやって来ます。作品は、第2次世界大戦が終わった2年後の1947年に、ワシントンのオール・ソウルズ・ユニテリアン教会から届いた文房具や運動具のお礼として、本川小の子どもが贈りました。

展示会の開催は、2006年に教会で絵や書を見た舞台芸術家の重藤静美さん=米国在住=がドキュメンタリー映画をつくり始めたのがきっかけです。当時の児童たちとやりとりする中で展示会をすることになりました。

本川小の同窓会が中心になって実行委員会をつくり、展示会に向けて準備を進めています。国内外から寄付も募り、50万円以上集まりました。

展示会に先駆けて7月31日午後1時半から同小の体育館でオープニングイベントが開かれます。絵の制作者や教会の関係者たちによるパネルディスカッションや米国の子どもたちの日本舞踊公演などがあります。(中1・井口雄司)