平和記念公園にある原爆ドームやレストハウスをはじめ、広島市内にはいろいろな被爆した建物があります。建物たちは、原爆被害の悲惨さだけでなく、それ以前の歴史を伝える「無言の証言者」です。
今回は広島市で開かれた「こども環境学会」のワークショップをきっかけに、ジュニアライターが被爆建物を訪ね歩いてみました。一見して、被爆建物と気付かないものもありましたが、説明を聞く中で、被爆建物の持つ役割の大きさを再認識しました。
レストランへと生まれ変わった旧変電所など、現在も活用されている建物がある一方、姿は残っていても、使われていない建物もあります。身近にある被爆建物に足を運び、よりよい保存、活用法を考えてみませんか。
また、同学会では、平和記念公園をテーマにしたワークショップにも参加しました。平和記念公園の下には被爆前の街の痕跡が今も残っていることを知りました。平和について考え、学ぶ 場として、どんな平和公園がいいか、参加した子どもたちから色々な提案がありました。
高2・岩田皆子が撮影を担当しました。写真をクリックすると被爆建物の説明を読むことができます。 |
活用すれば存在輝く −広島国際大 石丸紀興教授
被爆建物に詳しい広島国際大教授の石丸紀興さん(69)=都市計画史=は「被爆建物はそこにあるだけで私たちに語りかけている」と言います。
被爆からまもなく65年。広島市には今もあちこちに被爆建物が残っています。アンデルセン(広島市中区)や福屋八丁堀本店(同)では被爆した建物が現在も使われています。本川小(同)のように被爆した校舎の1階と地下を資料館として残しているケースもあります。被爆した建材を活用しているのはパルコ広島店(同)。被爆し取り壊されたキリンビアホールのタイルが埋め込まれています。
このように、被爆建物は、私たちの身近なところに残っています。原爆の恐ろしさだけでなく、軍都だった被爆前の広島の歴史も伝えています。広島の復興を支える役割も果たしました。
そんな「証言者」たちも、1965年ごろから90年ごろにかけ、建物の老朽化などを理由に相次いで取り壊されました。
石丸教授は「今ある被爆建物を可能な限り残し、街の中でいつまでも語らせてほしい。活用して息を吹き込めば、必ず存在感が出てくる」と強調します。「レストハウスの地下室は、今なお補修されないままの壁や湿った空気から、この建物のたどってきた運命のようなものを感じることができます」。石丸教授が熱く語るのを聞き、あらためて被爆建物の大切さを感じました。(高2・古川聖良)
平和公園を考える
■ワークショップ「こどもたちの平和公園」に参加■ 「こども環境学会」で行われた、「こどもたちの平和公園」というワークショップに参加しました。
小学2年から中学2年までの18人が、原爆が落とされた直後の広島市中心部をイメージした、6・8メートル×3・4メートルの地図の上に、参加者が作った模型を置きました。建築家の伊東豊雄さんのアドバイスの下で、新しい平和記念公園を作りました。 なぎさ公園小5年の田中作楽さん(10)は、「おりづるレストラン」を作りました。店内には折り鶴がつられています。食事の料金は客が折った折り鶴で支払います。田中さんは「平和に関係する言葉を考えた時、最初に浮かんだのが折り鶴だった」と話していました。 僕は、妹と協力して原爆ドームの形をし、すべり台やブランコが付いた遊具を作りました。平和記念公園は、子どもが笑顔で楽しめる場所ではないと思うので、安心して遊べる公園にしたいと思い、提案しました。原爆ドームの形をしているのは、原爆ドームには柵があって身近で見ることができないので、中の構造もよく分かるようにして親しみを持つことができることを意識しました。 今の平和記念公園は、戦争や原爆の被害者を追悼して、祈るための静かな公園。という印象が強いです。でも、今回作った平和記念公園は、希望や夢にあふれていて人が集まる、にぎやかな公園になったと感じました。(中1・河野新大) ■復興の象徴「平和公園」 原爆の犠牲になった人たちを悼み、平和への思いを新たにしてくれる平和記念公園。「広島の復興の象徴にもなっている」と広島国際大学の石丸紀興教授(69)は話します。
平和記念公園がある中島地区は戦前、映画館や喫茶店が立ち並ぶ繁華街でした。原爆により広島市は大きな被害を受けました。特に爆心地に近かった中島地区はほとんどの建物が爆風で倒壊したり焼けてなくなったりしました。1946年から本格的な復興が始まり、がれきの撤去や区画整理が行われました。その中で、平和記念施設をつくることになり、国からの補助をもとに平和記念公園が建設されました。場所は、川と平和大通りに挟まれた三角地帯で、爆心地からも近い中島地区が選ばれました。 設計は故丹下健三さんが担当しました。開放感を与えるために原爆資料館の1階を吹き抜けにするなどいろいろな工夫がされています。その中で一番の特徴は、慰霊碑から原爆ドームが一直線に見えるデザインで設計されていることです。この軸線は、その後の都市建設にも影響し、「復興の軸線」として公園から、さらに南北に延びているそうです。 工事などで公園内を掘ると公園ができる前の中島地区の家屋の瓦やれんがの土台がよくでてきます。まだ固まっていないコンクリートに子どもがつけた足跡なども地中から見つかり、「公園ができる前に、人が暮らしていたことを伝えられるようにする工夫も必要だと思う」と石丸さんは言います。(高3・見越正礼) |
保存への取り組み
■伝えるため 工事費助成 −広島市の登録制度 広島市は、爆心地から半径5キロ以内にあって原爆の被害を後世に伝えると判断した建物を「被爆建物」として登録しています。このエリアは、65年前の原爆で建物の95%を破壊された地域です。 被爆建物保存のさきがけとなったのは原爆ドームです。1966年、原爆ドームの保存を広島市議会が議決し、その後、保存工事を3回行っています。 市議会は90年2月、今度は被爆建物について十分な調査研究を行い、歴史的財産として後世に伝承すべきだとの決議をしました。これを受けて93年、広島市が被爆建物を登録するようになったのです。現在は90件が登録されています。 被爆建物は、国が管理しているものが3件、県管理が2件、市管理が16件、民間で管理しているものが69件です。また、木造は55件、鉄筋やれんが造りなど非木造が35件です。保存にあたって広島市は、3000万円を上限に工事費の4分の3を助成しています。 課題もあります。これまで登録を受けた被爆建物は102件です。でも、建物の老朽化や、所有する企業の都合で、12件が取り壊されています。(中2・来山祥子) ■模型作り 原爆の威力学ぶ −ドーム題材に埼玉の関根さん
埼玉県の高校教諭、関根一昭さん(59)=埼玉県秩父市=は、原爆ドームとその前身である産業奨励館の模型の作り方を説明する本を出版しています。「被爆前後の姿を並べることでより原爆の破壊力を知ることができる」からだそうです。 関根さんは1997年、修学旅行で原爆ドームを見た教え子が「ボロボロのドームを見て衝撃を受けた。悲惨さを模型で訴えたい」と原爆ドームの模型作りに取り組むのを手伝いました。内部の構造が分からず、何度も広島に通って完成させたそうです。 その後、スウェーデンにある国際平和団体を通じて「原爆ドームの模型を作ることで核兵器の恐ろしさを訴えよう」と世界の学校に呼び掛けました。これまでに10カ国から13点、国内も含めると51点の模型が寄せられました。ロシアやチェコに招待され、現地で作ったこともあります。ロシアのある生徒は、「教科書には広島や長崎のことは2行くらいしか書かれていないけれど、ドーム作りで学んだことを友達にしっかり伝えたい」と語ったそうです。 これからもドームの模型を使って原爆の恐ろしさを伝え、「核兵器はいらない」ということを伝えていきたいそうです。(中2・末本雄祐) |