「天寿(てんじゅ)を完(まっと)うして下さい」。自らの死を前に、両親にはそう願った息子。遺す子どもに「ヒトノオトウサンヲウラヤンデハイケマセンヨ」と書いた父―。
太平洋戦争の末期、特別攻撃(特攻)隊員として、自分の命を捨てて航空機ごと敵艦に突っ込もうとした若者たちの遺書です。鹿児島県にある知覧(ちらん)特攻平和会館を訪れる人の多くは涙を流し、彼らの思いを読み取ろうとします。
広島市から南西約80キロには、周南市回天(かいてん)記念館があります。魚雷(ぎょらい)に乗り込み、敵艦に突撃した「人間魚雷」の搭乗員たちの遺書をここでも読むことができます。
特攻。国のため、愛する人のためと信じて死んでいった彼らは、ジュニアライターたちと年齢がそう違わない男性たちだと知りました。生き残りの元特攻隊員の2人に話を聞き、自分の人生と重ね、命の大切さを考えました。
旧日本軍は太平洋戦争が終わりに近づいた1944年10月のレイテ沖海戦から、爆弾を積んだ航空機などで連合国軍の艦船に体当たりしようとした特攻隊を投入しました。終戦までに亡くなった特攻隊員は陸海軍合わせて5843人で、そのほとんどが10代、20代の若者でした(特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会調べ)。
特攻は、隊員が爆弾や爆薬と一緒にぶつかって敵の艦船を沈没させようとするもので、生きて帰れる可能性はありませんでした。飛行機のほかにもボート、人間魚雷などさまざまな形で行われました。 45年春には、米軍は慶良間諸島(けらましょとう)を経て沖縄本島に上陸しました。この敗戦への流れを挽回しようと旧日本軍は沖縄に最も近い陸軍の知覧特攻基地(鹿児島県知覧町)を中心に全国から陸軍の特攻隊員を集めました。知覧基地から出撃した隊員のうち亡くなったのは439人。知覧からの出撃命令で周辺の飛行場から飛び立った隊員を含めると1036人が犠牲になりました(知覧特攻平和会館調べ)。 また、44年11月から終戦までに海軍の人間魚雷「回天」の搭乗員のうち、89人が出撃で亡くなっています(周南市回天記念館調べ)。(高3・新山京子)練習機に乗る新本さん |
元特攻隊員の新本巌さん=広島市安佐北区狩留家(かるが)町=に話を聞きました。肺の病気で入院中のところ、一生懸命説明してくれました。
自分と「桜花」の額を手に、体験を話す新本さん=左端(撮影・高2岡田莉佳子) |
幼いころから飛行機のパイロットにあこがれ、19歳で親に秘密で予科練(よかれん)に入隊、飛行訓練を終えて桜花(おうか)隊に入りました。「桜花」とは全長約6メートルの胴体の先頭部に爆薬を積んだ小型の航空機です。とはいえ、運搬用の攻撃機につるされて敵の艦船に接近して投下され、パイロットごと突入する人間爆弾です。
茨城県の基地で訓練を続けました。死を意味する出撃命令は、いつ来るのか全く分かりませんでした。当時は「怖いという切迫感はなかった。正直に言えば、誰も死にたくない。でも自分たちが防波堤になって国を守らんといけん局面では、なかなかそうは言われん」と話します。
出撃命令のないまま、終戦を迎えました。「死なずに帰れるとうれしかった。今になって思えば生きることに制限はない。特攻は二度とあってほしくない」。僕たちはもっと勉強して、少しでも多くの人に新本さんたち特攻隊員の方の思いを伝えていきたいです。(中3・見越正礼)
新本さんへのインタビューの様子です。スタートボタンを押してね
上=回天搭乗員らの遺影と、操縦席の模型の前で回天の仕組みや歴史について聞いた=回天記念館(撮影・高3新山京子) 下=鉄製の回天模型を前に、話す西本さん(右)(撮影・高3本川裕太郎) |
人間魚雷「回天」について調べようと、周南市回天記念館(同市大津島)を訪ねました。そのうえで元回天隊員で出撃命令のないまま平生基地(山口県平生町)で終戦を迎えた土地家屋調査士の西本和雄さん=呉市豊町=に話を聞きました。
回天は敵艦への命中率を高めようと、魚雷に操縦席などを取り付け、搭乗員ごと敵艦に突っ込む特攻兵器として造られました。同記念館前に展示された原寸大模型は全長14・75メートルもあります。海軍の青年士官2人が考案し、1944年8月に海軍に兵器として採用されました。
その名前は「天を回らし戦局を逆転させる」という意味です。旧日本軍は志願者を募り、44年9月の大津島に続き、全国で4つの回天基地を開きました。
西本さんは43年、16歳で予科練に志願し、入隊。翌年8月ごろ「特殊兵器」の搭乗員に志願するかどうかを5分以内で決めるよう命令されました。「飛行機より危険度が高い」というあいまいな説明だったにもかかわらず、自ら肉弾となる兵器ではないかと気付いていたそうです。でも早く戦地に行きたい一心で志願しました。「死に対する恐怖感はあまりなかった」と振り返ります。
回天は、終戦までに約420基生産され、海軍兵学校や予科練出身者ら1375人が搭乗員として訓練しました。訓練中の事故を含めると104人が犠牲になりました。回天が沈没させたり、損傷を与えたりした米軍の輸送船や駆逐艦(くちくかん)で、確認されているのはたった7隻です(2007年4月末現在、全国回天会調べ)。
西本さんと一緒に回天搭乗訓練をした予科練出身の同期は終戦の約1カ月前に出撃し、18歳の若さで亡くなりました。今思い出すと自分が生き残ったことが申し訳ないような気がしてしまうと言います。
当時回天隊に入ったことについては悔いはないそうですが、「それは小さいころから国や天皇のために命をささげるよう教育されていたから」と話していました。「今の若者は自由に恵まれているのだから、もっと勉強して、自分の頭で考え判断して平和に貢献してほしい」と言われたのが印象的でした。(高3・本川裕太郎、高2・岡田莉佳子)
ジュニアライター5人が特攻の取材の感想を寄せ合いました。
取材前は、なぜ特攻隊の方たちが命をかけてまで国を守ろうとするのか私たち全員が理解できませんでした。話を聞いた後では「大切な人を守りたいという、私たちも感じる気持ちを持って命をかけたのだ」と共感する意見が出ました。一方で、「かわいそう。軍国主義の教育のせい」という意見もありました。誰もが持つ身近な人を愛する気持ちや愛国心は、とらえ方によっては命を落とすという怖いものにもなります。
中東などで起こっている自爆テロについても意見を出し合いました。自爆テロの中には、特攻のように爆発物を積んだ車で人が大勢集まる場所に人間ごと突っ込むものもあります。特攻と似ているという人と、戦争中でないとき、一般人も無差別に巻き添えにするのは違うという人がいました。「イスラム教はいけないといった偏見を持つ人もいるかもしれない。でも米軍などによるイラクへの駐留などが自爆テロに追い込んでいるのでは」という人もいました。
「二度と特攻があってはならない」。これは全員一致でした。そのために自分たちに何ができるか考えました。「特攻について学校で勉強できるよう要請したい」、「外国と結びつきを強めて、二度と戦争自体が起きないようにすることが大切」などの意見が出ました。(中2・岩田皆子)