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 長田 寿和子(中)  世界への窓 広げた英語


父親に家で飼っていた羊に乗せてもらう筆者。5歳のころ

ながた・すわこ

1951年長崎県生まれ。長崎大教育学部を卒業後、神戸市立の中学校で英語教師として35年間勤務した。教員生活の傍ら、国際教育のNPO法人グローバルプロジェクト推進機構(JEARN)に所属。2003年に開かれた同機構の親団体「国際教育ネットワーク」(iEARN)の会議を機に、10年3月「ねがい国際教育センター」をケニアのカイモシに設立し、教師を退職。同年9月から現地で子どもに日本語を教えている。

長崎県口之津町(現南島原市)に長女として生まれました。家は祖父が農家で、父は郵便局勤務。家には鶏や豚、羊を飼っていて、自分たちのセーターも刈り取った羊の毛を農協で毛糸にしてもらい、それを母が染色して編んでくれていました。家畜はいたものの、肉を食べるのは正月と盆ぐらいで、普段は家で作った野菜や父が釣ってきた魚などを食べていました。

お寺に通っていた祖母について行って食べた精進料理がおいしかったのを覚えています。祖母の口癖は「もったいない」。水は井戸水を利用し、一滴も無駄にしないように、食べ物は残さないようにしつけられました。それがケニアで役立つとは!


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小中学校では真面目と言われ、よく勉強しました。電気はありましたが、冬寒い時は足を毛布でぐるぐる巻きにして、夜遅くまで机に向かいました。中学で初めて英語を習った時、この言葉が世界に通じる窓のような気がして一生懸命命になりました。NHKに応募した英作文が入選。私の作文を読む外国人の声をラジオで聞いて感動しました。当時の夢は、英語を使った職業、特にテレビの海外特派員になることでした。

高校までは勉強ばかりで灰色の毎日。友達も限られ、遊びに行く所もなく、手当たり次第に参考書で勉強しました。

卒業後、長崎大に進み、大学のある長崎市で1人暮らしを始めました。世界が広がって友達も増え、いろいろアルバイトもしました。2年の時、デパートの菓子売り場でバイトをしました。その時ネクタイ売り場でバイトをしていた人が、今ケニアで農業を教えている夫、博文(60)です。

教育学部英語科だったので3年の時に教育実習をしました。子どもの反応が面白く、教育の道を選びました。卒業と同時に結婚。兵庫県尼崎市に住み、神戸市の中学校に勤めました。生徒にグローバルな知識を持ち、世界への窓を広げさせようと、英語を教える中、海外事情や国際問題も紹介。自身も夏休みなどに海外へ行き、その経験を授業で話していました。


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2003年1月、教師による「教育研究全国集会」で広島市の大州中の生徒たちが作った歌「ねがい」に出会いました。内容に感動し、多くの人に広めたいと思うようになりました。

ちょうど翻訳ボランティアで関わっていたNPO法人「グローバルプロジェクト推進機構(JEARN)」の親団体「国際教育ネットワーク」(iEARN)の世界大会が兵庫県の淡路島であることを知りました。この歌を世界の人たちと一緒に歌いたい、とすぐに働きかけました。歌は同年7月に開かれた大会のテーマソングになり、12カ国の人たちと一緒に各国の言語で歌ったのです。

私自身は歌詞の3番「もしもこの足下に 植えられたものが 地雷ではなく 小麦の種であったなら 餓えや争いに 苦しまないで 共に分かち合って暮らすだろう」に大変ひかれました。

私は、先進国だけが地球の資源をむさぼり、貧しい国を置き去りにしては、世界の幸せは成り立たない、と考えています。一方で、自国の問題だけでも大変なのに、世界の人たちとともに歩むことは本当に難しく、どうしたら、そういう人たちと思いを分かち合えるのだろうか、と課題を胸に抱いていました。

 
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